なぜ今年もnoteは自動書記を始めるのか?
この記事を読んで、あなたが得られるかも知れない利益:自動書記?フフ、ムーだよ、ってわけでもないのですが、どうもこの頃とくにnoteに書く文章が、当初考えていた内容とまったく違っちゃうのです。誰かが僕のペンを盗んで勝手に書いているような・・。これって自動書記なのでしょうか。思うところを書いてみました。トップ画はhttps://qr1.jp/vemnRP
手が勝手に動き出す?
あなたが「ムー」の読者だと、三島由紀夫の自動書記、を思い出すかもしれません。
悲劇の文豪からのインスピレーションで、三島由紀夫がある女性に憑依し、文章を書かせるという、かなり昔からの有名な事例です。
今日は、オカルト的な分析というよりも、主に経営学の立場から、こうした現象を暴いてみたい(笑)と思っております。
これはちょっと自動書記とは違うかもしれないのですが、僕は最近、自分の書くnoteが、当初の設計図どおりに書けないというトラブルに見舞われているんですよ。
テーマを決めて、そしてあらかじめ「こう書く」と決めているのに、途中からまったく違うものになってしまい、最後にはテーマさえも変えるはめになってしまうような現象です。
いや、いいや、それも含めて「自動書記」ということにしましょう。
立川談志の箴言
この間、NHKの「こころの時代」を見ていたら、どんな文脈か忘れましたけれど、ある宗教家がこんなことを言っていたんですよ。
それは故・立川談志師匠の言葉で、「落語が話しかけてくる」というのです。
僕はこれは、なんとなくわかるような気がしたのです。
一つの道を極めようと、一意専心没頭すると、何かその道が見えてきて、道の方から教えてくれる、ということではないかと。
談志師匠は、落語の革命児ですから、それこそ古典落語から現代落語まで勉強し実践し抜いて、自流を確立するに至ったわけですよね。
それは言い換えれば、落語に対する熱意であり、いやそれを超えた「愛」といえるでしょう。
なにかの対象を心から愛すると、その対象が考えていることがわかるようになるのです。
それを談志師匠は「落語が話してくる」と表現したのではないでしょうか。
ある知り合いの住職は、ある修法のお作法の次第(経典)に欠けている部分があった時、「やっていくうちに自然に手が動いた」、と話をしてくれたことがあります。
仏が話しかけて教えた、のではないでしょうか。
自動書記とは誰かが話しかけてくるのを、夢中で写し取っている現象です。
自動書記の経営学的メカニズム
その対象を愛しぬけば、その対象の本質が見えてくるが故に、声も聞こえる、ということです。
しかし、愛とはなんでしょうか。
僕はそのものに関する知識の量、だと思います。
愛すればその人のことを知りたくなるものです。
面接試験で学生が「御社を愛し、心から入社したい」と言ったら、「当社の設立はいつ?」と聞いてみましょう。
答えられなければ、その愛は偽物、です。
経営学とは、知識の量であり、それを組み合わせるパターンの量なんです。
何かを極めるまでやれば、必要に応じてその何か、から指示をうける、それは経営学的に言うと、「組み合わせのパターンが増えて、本質に肉薄したり、爆発が生まれる」ということです。
イノベーションとは、組み合わせのことなのです。
組み合わせは、もっている知識の数だけ豊かになります。
100種類のデータを持っていれば、組み合わせは100✕100=1万通りの答えが出ます。
その道に通じたものは、常にその豊かな組み合わせのバリエーションを持っており、問題や課題に応じて、そのパターンを提示できるのではないでしょうか。
それが自動書記につながるのです。
自動書記の正体は「組み合わせ」だ
自動書記のメカニズムは、僕が考えるに、ひとつのことばが引き金になって、あなたの脳内のデータが無限の組み合わせを提示してくる現象ではないでしょうか。
それは、結果として何らかの整合性をもっていることもあるのです。
雑誌ムーは、それを予言というのです。
たとえばあなたが、なにかの言葉を思いついたとします。
そうすると、そのひとのなかにある膨大な知識の一つと結びついて、文章になり、それがまた違う知識と結びついて展開し、最後は一つの意味を持ったメッセージになるのではないでしょうか。
もちろん、神や仏、その他の存在から霊感を通じて、メッセージをうけることもあるでしょう。
その解明については、また別の機会に。
そんなことで、僕はなんにも極めることなどできていませんが、年をとった分だけ、知識の量が増え、組み合わせのパターンが多くなったのは、否定できません。
僕の自動書記現象(笑)は、ふと記した自分の言葉が、他の言葉をひきつけて脱線し始め、最初の意図した文章の構造が破壊されることが増えてきた、これが真相なのかもしれません。
そう考えると、専門知識だけでなく、色んなジャンルの知識があったほうが、組み合わせはジャンルを超えて面白いものになる可能性があります。
また知識だけではなく、それをどう解釈するか、も知識のひとつといえます。
一つの事象を、多角的に、そして独自に解釈するという枝葉が増えることによって、一つの知識は無限の支流を持つことになります。
日本人は専門家を尊び、他分野に手を広げることをよしとしません。
しかし、僕は「浅く広くでいい、いや、浅く広くのほうが、思考の飛躍、いや人生の飛躍によりつながるのだ」などと最近強く思っているのです。
身体性が精神性につながる
自動書記には、書くという動作が伴います。
それは自動書記へのスイッチです。
書くという動作で、精神が躍動し、瞬時にストーリーを紡ぎ出し、あとはそれを手で追うだけ。
身体の動きが、精神を躍動させる、のでしょうか。
もしくは、ふと記した一つの言葉に、それに関係する知識が追いかけて着て、知らぬ間に一つのアイディアやメッセージが生まれてくる。
これが、自動書記のメカニズム、なのかな?
ああ、こんな文章書くつもりじゃなかったのに・・
またタイトルを直しますね。
野呂 一郎
清和大学教授
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