ほめられないと、自分という人間はわからない。(高校生向け)
この記事を読んで高校生のキミが得られるかもしれない利益:人を褒めることの功徳。でもそれよりも、ずっとほめられることの利益は大きいこと。自分自身は自分ではわからないという事実。
女の人に声をかけたよ
近くのスーパーで気になる女の人がいるんだ。
いや、ナンパしようっていうわけじゃないよ(笑)
レジの女性なんだけれど、いつも大きな声でお客さんに挨拶しているんだ。
誰も返事を返さないのに、明るい声でひとりひとりに「こんばんわ!」って声をかけている。
僕は元気がもらえるような気がして、混んでいてもその人のレジに並ぶ。
きょう、思い切って声をかけた。
「お姉さん、元気がよくていいですね。おねえさんの『こんばんわ』好きだな」。
そうしたら驚くべき反応があったんだ。
「そんなこと言われたことがありません。もう一度言っていただくように頑張ります!上司にお客さんにほめられたって報告します!」。
そんなに喜んでもらえるんだ、って僕は思ったんだ。
と同時に、なぜ日本人は人をほめようとしないのか、と考えたよ。
僕はアメリカに住んでいる時、習慣のようにひとをほめていた。
「カッコいいネクタイだね」「素敵な服ですね」「髪切ってきたの、似合うね」とかいう具合だ。
まわりのアメリカ人がそうするからだ。
もちろん、キレイだねなどと言ったらセクハラになるから、それは注意していたけどね、30年前も。
それ以来日本でも人をほめようと思っているんだけれど、最近はバスの運転手が渋滞回避で迂回して早くつくと降りる時に「ナイス迂回!」とか声をかけるくらいかなあ。これを言うと運転手さんによってはすごく喜んでくれるよ。
接客がすごくいい運転手にあうと、会社にメール送ってほめることもあるし、美味しいお弁当に出会うと、会社に感激を伝えるはがきを出すこともある。そのお弁当会社からは、無料お弁当券をもらったこともある。
最近はとても素晴らしいnoteの記事を書いている人に、「繰り返して読みたい」とメッセージを送ったら「あなたみたいな人にそんな事を言って頂き感激」などと返され、恐縮しちゃったよ。
ほめられないと自分がわからない
僕も最近ほめられたんだよ。
学生から。試験の答案にほめことばが書いてあった。
「先生の授業で創造性が鍛えられました」っていう一言、だった。
最初は「ふうん」ってな感じで気にもとめなかったんだけれど、
こんなふうに思えてきたんだ。
「あれっ、オレってクリエイティブなんじゃないの?」
笑ってくれよ、そんなわけないって。
でもね、考えてみればここ10年くらい、よくそういったことは言われる。
なぜかというと、僕の授業は「わかりやすく、楽しく面白く」がモットーだからだ。
いわゆるエンタテイメントを生むには、意外な組み合わせが勝負だ。
定番のプロレス+経営学はもちろん、アニメの名場面を編集して学問の概念に結びつけることは多々あり、それを学生はクリエイティブと誤解してるのかもな、とは思っていた。
でも、今回の一言は僕に痛く刺さったのだ。
つまり、本気にしたんだ。
詳しいことは省くけれど、その学生の一言が僕が今悩んでいる自分の方向に答えをくれたんだ。
これはうぬぼれ、や、勝手な思い込みを超えた、僕にとっては
「天の声」だったんだ。
一生懸命やることが大事
きょう、キミに何を言いたいかというと、他人のほめ言葉で自分の本質に気づくことがある、ということなんだ。
自分というのは、なかなか自分ではわからない。
わからないからこそ、キミたちは悩むんだ。
でも、他人からほめられると、その悩みがキレイに解決する。
その褒め言葉には、「キミの本質」が示されているからだ。
だから、ほめられろ!
ほめられる機会を作れ。
僕の経験から言うと、ほめられるためには一つのことをやればいい。
それは「一生懸命やる」ということだ。
人間は他人には期待できないんだよ、でも自分には期待できる。
だから、何ごとも一生懸命やろう。
「好きなことじゃないと一生懸命出来ない」。
わかるよ、それはとてもよく。
でも、嫌いなものでもなんでも、一所懸命にやろう。
考えていても解決がつかないんだよ、だからとりあえず
眼の前のこと(一所)を懸命にやるといいと思う。
嫌いなことでも懸命にやることから、思わぬ収穫があるよ。
そこに、キミも気づかない本当の君がいるんだ。
僕は今、雲が晴れた心境だ。
悩みながらも、今目の前のやらなきゃならないことに真剣に取り組む。
誰か必ず見ている。
そうしているうちに、キミが奮い立つキミの本質を教えてくれる人が現れるよ。
キミの人生を変える金言を持って、ね。
今日も最後まで読んでくれて、ありがとう。
じゃあ、また明日会おう。
野呂 一郎
清和大学教授/新潟プロレスアドバイザー
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