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妥協というアート。
この記事を読んであなたが得られるかもしれない利益:妥協は本当に悪なのか。いや、そんなことはない、妥協はアート(芸術)なのかもしれないと気づいた件。
やることが多すぎて
読者の皆様もそうだと思いますが、やんなっちゃいますよね、やることが多すぎて。
僕の目下の課題は、書き散らかした文章をまとめて、テーマや項目をつけて整理し本や教材や論文にすることなのですが、うんざりするほどの仕事量になるので、げんなりしているのです。
しかし、天啓のように悪魔のささやきが聞こえてきたのです。
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「適当にやれよ」。
悪魔の辞典を読んでいるせいでしょうか、悪魔が降りてきたようです。(笑)
今日は、この悪魔のアドバイスを考えてみたいのです。
完璧主義に潜むワナ
どんな芸術も、完璧を目指したらキリがないと思うのです。
ピカソは多作で知られていますが、僕が言うのははばかられますが、
案外、完璧にこだわってなかったかもしれない、と思うのです。
僕の尊敬する芸術家、阿久悠さんは、小説を初めて書いた時にこんなことを言っています。
![](https://assets.st-note.com/img/1718895168231-LoUgtqagIE.png)
「作詞という創作活動で身につけた技術で、カタチにすることはできる」。
芸術家は、それを良しとはしないだろうけれども、自然に身についた”完成力”で、概要を表現することは、案外苦労もなくできてしまうのかもしれません。
松本清張も、悩みは「書きたいことは山ほどあるのに、時間がない」ことでした。
![](https://assets.st-note.com/img/1718895070448-jQt72BYGIN.png)
彼ははっきりは明かしていませんが、晩年は小説の完成をひとつのプロジェクトと考えて、スタッフを雇って分業制で小説の創作に取り掛かっていたようです。
小説の要素、展開、そして何よりも面白い小説とは何かを知悉していたがゆえに、プロダクション方式で、総監督として作品を作ることができたのです。
清張のこのやり方も、完全主義の呪縛から抜け出ている、と見ることもできるのではないでしょうか。
明らかにそこには、質よりも量、という清張の晩年の意識が見て取れるからです。
一作に入魂していて3年もかかってしまっては、他のテーマが書けない。
完全主義を捨てて、妥協しても、書きたい本をどんどん書こう、というわけです。
手持ちのコマで勝負せよ
妥協するということが、やっとわかりましたよ。
それは手持ちのコマで勝負せよ、っていうことです。
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勤勉な皆さまは、常に最新知識を仕入れ、ご自分の見解をアップグレードするように、つとめています。
あたかもそれは強迫観念に駆られているようです。
でも、あなたにはすでに蓄えている、素晴らしいものをたくさん持っているのです。
それを生かさずに、何かに取り憑かれたように新しいものをとりいれようとしているあなた。
妥協とはなんのことはない、自分を信じる態度のことなのです。
芥川賞を取ろうと、過去の受賞作をむさぼり読むのはもうやめましょう。
宝は自分の中にあるのです。
自信を持つことです。
あなたに足りないのは自分を信じるココロです。
自信なしに、何も生まれません。
自分を信じることが、アートの原動力なのです。
妥協とは、自らを信じることとみつけたり。
野呂 一郎
清和大学教授
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