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カタールW杯にみる、スポーツウォッシングは是か非か。

この記事を読んであなたが得られるかもしれない利益:スポーツウォッシングとは何か。現代におけるスポーツのもつチカラとは。北京五輪は本当に中国の民主化に役に立たなかったのか。トップ画はhttps://qr.quel.jp/pv.php?b=3VIMzov

スポーツウォッシングとは何か

今回のカタールW杯が、スポーツウォッシングと言われている。

スポーツウォッシング(sports washing)とは、個人、グループ、企業、政府の4つのレベルがある。

要するにスポーツウォッシングは、この4者が不正やスキャンダルで汚されたイメージを回復するためにスポーツイベントを開催する、スポーツチームを買う、スポーツに参加することを意味する。

文字通り、スポーツのもつよいイメージを利用して、洗濯つまり失地回復を企む行為であり、スポーツウォッシングは否定的な意味合いで使われる。

評判の洗濯(reputation laundering)とも呼ばれる。

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今回のカタール政府によるサッカー・ワールドカップ開催も、スポーツウォッシングと言われている。

2018年のロシアW杯も、典型的なスポーツウォッシングだ。

当時ロシアの国際的なイメージは今ほどでないが悪く、スポーツに関して言えば常に薬物摂取の問題で疑惑の中心にいた。

さて、ロシアの「スポーツウォッシング」は成功したのだろうか。否、である。戦争がそれを雄弁に語っている。

スポーツウォッシングに反対するものは、「自己満足にすぎない。政府の非民主的な政策を変える期待などしてはならない」と手厳しい。

カタールが得た漁夫の利

BusinessWeek2022年11月21日号(P8-9)は「Qatar's $300 Billion Trophyカタール3000億ドルのトロフィー」と題して、今回のW杯をあえてスポーツウォッシング的な観点から、その是非を論じている。

ワシントンを本拠にするリスク・コンサルティング会社のガルフ・ステート・アナリティックス(Gulf State Analytics)のCEOジオジオ・カフィエロ氏(Giorgio Cafiero) は、

「カタールがW杯を主催することは、カタールのイメージを強化するだろう。

W杯を主催することはカタールを非常に前向きな、進歩的で世界に向いた湾岸国で、多様な人々を一つにすることに熱心、というイメージを創るのに役立つ」

前掲BusinessWeek

と話し、カタールの「スポーツウォッシング」に肯定的な評価をしている。

しかし、皮肉だったのは今回カタールは、主催者ゆえにスポーツウォッシング的な批判を受けたことだ。

W杯のスタジアムやW杯に関するインフラ構築の為に働いた労働者に対する、非人間的な安全を無視した扱いに対して、世界中からいっせいにブーイングが上がったのである。

しかし、W杯を利用して国威発揚、イメージ強化を目論むカタールは一部労働法を改正し、火消しに躍起になっている。

カタールはすべての観光客を歓迎する姿勢を崩さず、W杯期間中はLGBTQの運動家等は取り締まらないことにしている。

中国は五輪で変わったのか

スポーツウォッシングといえば、やはり2008年の北京五輪は外せないだろう。

中国の狙いは当然、世界的なイメージを改善するためだったが、スポーツウォッシング肯定派が期待するような効果はあったのだろうか。

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2008北京五輪は進歩性、自由、開放のあかし、と期待されていた。

しかし、14年経ってどうだろうか。

人々はその時よりも厳しい管理下におかれ、習近平政権が三期に入る中、抑圧は更に強まっている。

結論として、民主主義じゃない国がワールドカップや五輪を開催しても、その国の方向性や政策が変わるわけではなく、かえって悪化することもある、と言えるのではないだろうか。

三笘選手が示したスポーツのチカラ

しかし、スポーツウォッシングはそれらの国の自己満足かもしれないが、一時的とは言えイメージ改善には役立った、ことは事実ではないだろうか。

国際的なスポーツ大会の期間中は、中国もカタールも人道主義を標榜する国際世論に対しては、大変ナーバスになり、表面上それを守ろうとする。

個人的な意見としては、スポーツウォッシングを行うことは、当事者国にスポーツ開催中はフェイクであっても民主的で人間的なポーズをとることを強いるだけでも、意味があるといえるのではないか。

自由と民主主義が人類の普遍的な、持つべき価値、というつもりはないが、スポーツはそれとは関係なく、自然に人間を開放し、民主主義的にする力があると思う

例えば、今回の三笘選手のセンタリングのVAR判定。

公平で科学的で民主的であり、これはスポーツの本質がもたらした一種の到着点だ。

https://qr.quel.jp/pv.php?b=3iujS07

その意味で、スポーツのチカラは現代においてあなどれないと思うのである。

今日はちょっとタメ口をきいてみたよ。

今日も最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

では、また明日お目にかかるのを楽しみにしています。
 
                             野呂 一郎
                清和大学教授/新潟プロレスアドバイザー

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