『エターナルズ』を読み解くうえで「多様性」より重要なこと

*以下の文章はFilmarksに投稿したレビューをもとにしていますが、色々加筆したいところが出てきたので、noteにまとめることにしました。

 クロエ・ジャオによるマーヴェル映画。『ノマドランド』が素晴らしかったとはいえ、予告編の動画だとあまり面白そうに感じなかったので観るかどうか迷っていたのですが、たまたま上映スケジュールが合ったので映画館に行きました。結果的には観てよかった。クロエ・ジャオは大物過ぎる。たぶんこれからのアメリカ映画を引っ張っていくのは彼女になると思います。

 ネット上の感想など見るとやはり「ダイバーシティ」に注目している人が多い。確かに人種や性別のバランスはもちろん、男性による女性パートナーのケア、男性カップルによる子育て、耳の聞こえない少女、など目いっぱいにいろいろな要素が詰め込まれている。
 ただ、こういうことは10年以上前から『アドベンチャー・タイム』『スティーヴン・ユニバース』『サマーキャンプ・アイランド』などのカトゥーン・ネットワーク左派(私の造語ですが)が地道にやってきたことであって、メインストリームの実写作品でも同じようなことが受け入れられるようになったという嬉しさはあるけど、驚きはない。このくらいは「当たり前」になって欲しいという希望も込めて、このトピックについてはスルーしたいと思う。それにこの映画については、もっと別に論じるべきところがある。

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 本筋としては『エターナルズ』はアメリカの<帝国>主義的な政策に対する反省が軸になっている物語だ。

 まず冒頭で、エターナルズはディヴィエンツと戦っているという説明がある。ディヴィエンツというのは「標準からの逸脱」を意味し、変人や性的倒錯者を指す場合もある「ディヴィエント(deviant)」という単語の複数形であり、ヒーローは「型破りであることが掟」となっている(これ自体皮肉な現象だが、フーコーが『性の歴史』第1巻で論じているのでそちらを参照されたし)現代エンターテイメント作品の悪役にはふさわしくない呼び名であることに違和感を覚えるが、序盤はゆっくり、もっさりと話が展開していく。
 物語が一気に動き出すのは、1500年頃のスペイン人によるアステカ文明の破壊、つまり西洋による世界の植民地化のはじまりが回想されるところからだ(この映画の最重要シーンをひとつあげるとすれば間違いなくココ!)。ここで地球外生命体からディヴィエンツのせん滅というミッションを与えられて地球に派遣されたエターナルズと、非西洋の文明を破壊し、植民地化していく西洋の侵略者の姿とが重ねられる。

 ここで「西洋」という時に特に問題になるのはもちろん現代アメリカだろう。7000年の間、ディヴィエンツとの戦いを続けてきたエターナルズの姿がこの20年間に渡ってテロリズムとの「永続化した戦争」に加担し続けたUS国民の今に重なる構造になっている。作中には「イカリス」という人物が登場し、彼が物語後半の展開のカギになる。
 イカリスはギリシア神話の「イカロス」をもとにした名前だろう(彼の最後の退場シーンがそのことを証明している)。人間でありながら人工の翼を使って神の領域に近づこうとしたイカロスの「傲慢(hubris)」はもちろん、ハイテク化された軍隊によってテロリズム(=アメリカ主導のグローバル資本主義からの逸脱者たち)を駆逐し、中東地域を自分たちのロジックに従って民主化できると考えたアメリカの傲慢さでもある。
 ある場面でイカリスが「スーパーマン」に似ているという指摘がなされるのだが、スーパーマンというアメリカの文化における「ヒーロー・オブ・ヒーロー」とイカリスとのつながりを明示することによって、イカリス=US、であることが確認されている。
 この映画には『スターウォーズ』シリーズを彷彿とさせるオープニングや、『スタートレック』シリーズのブリッジを思い起こさせる宇宙船窓など、いたるところに過去のアメリカの娯楽映画への言及が散りばめているが、それらは過去の作品への敬意を込めたオマージュであると同時に「強いアメリカ」神話を支え続けたそうした作品への批判ともなっている。

 アメリカン・ヒーローたちが「自分たちは悪者だった」というストーリーを共有することで再結集するという話を中国出身の女性監督がアメリカで作るというのは確かにちょっとアツくなるものがある。こういう作品がマーヴェルという超商業的プラットフォームで可能であるということが、逆説的にもアメリカの圧倒的なパワーの所以を説明しているといって、間違いはないと思う。
 だが、この作品を作られるまでの20年間の間に(主にアメリカから遠く離れた地で)失われた命が、家族がどれだけあったかということを考えると気が重くなる。ヴァルター・ベンヤミンは「歴史哲学テーゼ」のなかであらゆる文化財は「文化の記録であると同時に、否応なく、野蛮の記録でもある」と書いたが、このことをこんなにも生々しく実感させる映画はそうそうない。
 映画を観ながら、クロエ・ジャオが仕組んだアレゴリーに興奮を覚えつつも、もしこの映画とひきかえに、アフガニスタンやイラクで失われた命をひとつでも取り戻せたなら、と問わずにはいられなかった。エターナルズが出した「大いなる善(greater good)」のために命を犠牲するのは間違いである、という結論に従うなら、『エターナルズ』は存在しない方がよかった。人間が生み出す知恵や芸術というのは、突き詰めれば経験の一回性に対する人間の無力さへの抗議であり、永遠の「後出しじゃんけん」に等しいものだと思う。あるいはそれを「愛」と呼ぶのかもしれないけれども。

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