『持続可能な魂の利用』2

 『持続可能な魂の利用』について、論旨は先日投稿した記事とかなり重複してしまうかもしれないが、もう一度整理したくなったので書きます。

 この作品が「小説ではない」という批判は調べるまでもなく予想されるし、確かに「小説」というよりは「マニフェスト」(いうまでもないが「選挙公約」をカタカナにしたものという文脈ではなく『共産党マニフェスト』みたいな文脈のそれ)といった方が適切なのではないかという気もする。

 しかし、にもかかわらずなぜこれが小説という形式で書かれたのか、もう一歩踏み込めば、現在の日本とSF的未来を往還するという、フィクショナルな仕掛けが何故必要だったのか、ということを考える必要がある。

 結論からいえば、それは今の日本の一般的な言説環境が、英語圏の文化に触れた人間が自分の経験を手掛かりに日本の現状を批判するとすぐに「出羽守」と言われてしまうような悪い場所になっているからだ。「出羽守」のような杜撰な批判は問題外としても、過去数世紀にわたって西洋と非西洋の関係は非対称性なものであり続けてきたという歴史的経緯がある以上、西洋的な視点を借りて日本社会における男性と女性の関係の非対称性を指摘するという行為が、ひとつ間違えれば西洋によるかつての自己中心主義的な身振りを反復することになってしまわないかという居心地の悪さは存在する。

 そのようなジレンマを回避するためには、現在の日本を批判するために足場を英語圏(今作の場合はカナダ)という地理的な外部からSF的な未来という時間的な外部へと移し替えるという処置がどうしても必要だったということだ。こうしたことはフィクションでないと行いにくい(論文やマニフェストでも不可能ということはないだろうが、実行すればそれはもはやフィクションとして扱われることだろう)。だから『持続可能な魂の利用』がエッセイやマニフェストではなく小説という体裁を取っていることには必然性があった。以上。

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