『ルックバック』ポスト大衆社会の芸術家物語

芸術家を主人公にした作品といえば、ジョイスの『若い芸術家の肖像』、ウルフの『灯台へ』、モームの『月と六ペンス』あたりから『ブリキの太鼓』や『この世界の片隅に』に至るまで、いくらでも名作があると言われそうだが、『ルックバック』が特筆に価するのは主人公の藤野が孤高の芸術家や知識人としてではなくて、徹底的に文化産業の駒として、つまりそのあたりにいる勤め人と同じような人種として描かれている点だ。担当編集者にアシスタントについての不満を訴える藤野のイライラほど、芸術家の狂気から程遠いものはない。

『ルックバック』において、芸術性か、大衆ウケか、といった悩みはほとんど問題にもならない。厳密にいえば、ストーリー重視で連載マンガ家になる藤野と、画力重視で美大に進学する京本の、方向性の違いにそれは残滓的に描かれており、藤野と京本のフェアとは言い難い関係性や、京本の理不尽な運命は、資本主義社会において純粋なアートを追求することの難しさを物語っているのかもしれないが、物語としてのメインはそこではない。

『ルックバック』においてストーリーか画力か(大衆性か芸術性か)というのは個性の問題であって、個人のなかに葛藤を作り出すような問題ではない。そのことは藤野は確かに京本の画力に嫉妬するものの、四コマの文法については放棄せず、藤野を「先生」とあがめる京本も自分のスタイルを曲げないという点からもうかがえる。* つまり、芸術との関わり方を通じて問われているのは世間との距離感ではない。『ルックバック』はエリートと大衆という二項対立が溶解したポスト大衆社会の芸術家、いや「クリエイター」物語なのだ。

では『ルックバック』は何を描いているのか。それは「クリエイター」と勤め人との境目が限りなく曖昧になっていく脱産業化した社会における、わたしたち一般の等身大の姿だ。

カナダの哲学者チャールズ・テイラーがいうように、世俗化・個人主義化が進んだ社会では、個人はよく生きることの指針を外部に求めることができなくなり、自分の内面的な感性やアイデアを仕事/作品(work)を通して表現することが自己実現の証とされる。そのような社会ではアーティストやアスリートといった人々がヒーローになる。

特に脱産業化が進む社会においてはなおさら、美術とはあまり縁のない業界においてさえ「クリエイティブ」であることが良しとされ、創造的破壊といった表現がもてはやされる。

これは理屈の上ではどうしようもない、というか大変けっこうなことでさえあるのかもしれないが、現実にはいくつかの問題が生じる。一方では、良く生きていることの証明としてよい仕事/作品に携わることを夢見ていたはずが、いつのまにか優先順位が転倒して、よい仕事/作品を生み出そうと躍起になればそれだけ、わたしたちは、まっとうな家族や、友人や、(この作品では描かれていないものの)恋人であることを犠牲にしてしまいたいという誘惑に、より頻繁に駆られるようになる。

もう一方で、そのような「クリエイティブ」な仕事への適性には個人差があるので、そのような尺度のみに頼って自己実現とか、人生の価値を測ろうとするような風潮は、そこかしこにあやうい淀みを作り出す。

これは、一昔前まではごく一部の特殊な人たちの悩みだったかもしれない。でも今では豊かな社会で、かなりの割合の人々を巻き込む一般的な悩みになっている。

『ルックバック』は映画としても一時間足らずの短い作品ながら「クリエイティブ」な仕事/作品を通した自己実現という現代の神話が生み出す矛盾の両極を描いているという点ですさまじい。詳述は避けるが、この物語の終盤にはあるSF的な仕掛けが、かなり唐突に登場して、観客を戸惑わせるが、この展開はある意味で必然ともいえる。『ルックバック』が提起する問題に対して、わたしたちの社会は、現実のレベルでそれを解決できるような妙案を持ち得ていないのだから。


*   藤野と京本という名前が、それぞれ原作者の藤本の苗字から一字ずつ取って作られていることには注意を促しておくべきかもしれない。しかし藤野の大衆性と京本の芸術性を統合することが物語の焦点になっているのかと問われれば、やはりそうではないだろうという気がする。

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