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『読んでいない本について堂々と語る方法』について読まずに語る(2020-3-17)

本屋に行った。僕は本屋に行くと必ず本を買ってしまう。今日もその悪癖のせいで読むかどうかもわからない本を買うことになった。『読んでいない本について堂々と語る方法』という本である。

僕はこの本をまだ読んでいない。僕が読んだのはこの本のまえがきだけである。僕がかねてから主張する理論の一つに「本はまえがきが一番面白い」というものがある。僕はこの本を通読したわけではないので、この本がこの理論に該当するかどうかはわからないが、少なくとも言えるのはこの本のまえがきが面白いということだ。

まだ読んでいない本についてあれこれ品評するのは不躾なことである。これには僕も同意する。読んでいない本を品評するというのは、届いてもいない商品についてレビューするAmazonレビュアーと同じことである、そう言われても仕方がないかもしれない。

しかし、この本のタイトルは『読んでいない本について堂々と語る方法』である。ならば、僕がここでこの本について読みもせずあれこれ品評したところで何も恥じることはないだろう。まあ、そもそもここは日記であるから、そのような心配をする必要はないのだが。

この本の著者、ピエール・バイヤール氏はパリ第八大学の文学教授である。一般に文学教授というのは、たいへんな読書家であるというイメージがある。僕も文学教授という言葉に対しては全く同じイメージを抱く。しかし、そのイメージを裏切るように、バイヤール氏は冒頭でこう述べている。

私は本というものをあまり読まない環境に生まれた。私自身、それほど本を読むことが好きなわけではないし、読書に没頭する時間もない。

この書き出しには正直面食らった。なぜ、本を読むのが好きでもないのに文学教授などやっているのか、と心の中でツッコんだ。続けざまに、読書好きでない文学教授は読書に関する三つの規範について語る。

第一に読書義務と呼ばれる規範。これは読書とは神聖な行為であるという社会的な合意のことである。例えば、僕が高校生の頃の現代文の教師は、「シェイクスピアを読んだことのないやつは人間ではない」と言っていた。この言葉はシェイクスピアの戯曲を読むということが神聖な行為であるという認識から生じるものである。こういうことを言う人は世の中に結構たくさんいるものである。人によって、シェイクスピアがドストエフスキーだったり、プルーストだったり、夏目漱石だったりに置き換わるだけである。彼らの各々が神聖視する対象の書物は違えど、彼らの間には「高尚な本を読むという行為は神聖なものである」という共通了解がある。

第二に通読義務と呼ばれる規範。これは本というのは最初から最後まで読まなければならないという考えのことである。この考えを持つ人は多い。かく言う僕もその一人である。僕は本棚にある上巻しか読んでいない『罪と罰』を見るたび、何となく後ろめたさを感じてしまう。

第三に本について語ることについての規範。これはある本について語るならば、その本を読んでいなければならないという暗黙の了解のことである。この了解も割と一般的である。例えば僕が友人と会話している時にシェイクスピアの『ハムレット』の台詞を何か引用したとする。"To be, or not to be."なんかは有名なので、読んでいなくても知っていることはあるだろう。しかし、僕は『ハムレット』はもちろんシェイクスピアの戯曲など一つも読んでいない。ここで、友人から「シェイクスピアの『ハムレット』だっけ?君、それ読んでるの?」などと聞かれたら、僕は何とも形容し難い後ろめたさを感じることになる。別に台詞くらいその作品を読んでいなくても引用してもよいのだが、面と向かって「あなたはこの作品について言及しているが、実際のところ、あなたはそれを読んだのか?」と聞かれると一種の罪悪感のようなものを感じてしまう。

バイヤール氏によれば、これらの規範は読書に対する偽善的態度を生むとのことだ。耳が痛い。読んでいない本についても読んだと嘘をついた覚えが僕にもある。その嘘は必要に駆られてついたこともあるし、単なる虚栄心でついたこともある。読んでいない本を読んだと嘘をつくことは可能である。まえがきを見れば本の内容はある程度わかるし、インターネットで調べればもっと詳しい概要を知ることもできる。僕はまえがきだけを読んで紹介文を書くという手法を用いて、高校時代の図書委員の広報誌の担当記事をほとんど読書することなく済ませてきた。

バイヤール氏は「読んでいない」という状態を四つに分類している。「ぜんぜん読んだことがない」、「流し読みをしたことがある」、「人から聞いたことがある」、「過去に読んだが忘れてしまった」という四つである。バイヤール氏はこれらの状態について各章で詳しく論じていく。僕はこの本を読んでいないのでわからないのだが、目次を見る限りそうらしい。

この本のまえがきはおおむね以上の通りである。本文については一文字たりとも読んでいないのだが、僕にとってこの本の役割は既に終わったような気がしている。多分僕はこれ以上この本を読んでも、まえがきを読んだ時ほどの気づきは得られないだろう。「本はまえがきだけ読めばいい」というのは僕の自己正当化のための勝手の持論である。『本はまえがきだけ読めばいい』という新書、ありそうだな。


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