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堀川くんの憂鬱

「一旦、タバコを吸うのをやめようか」

私は、彼の口に引っ掛かったまだ火のついたばかりの四角いタバコを摘み上げた。

すこし残った煙だろうか。彼は残尿のようなそれを吐いて、ため息をついた。

「どうしたんだい。またしょげてるね」

「そりゃ、やる気もなくなりますよ」

「やる気かい」

「ええ」

彼は呆れたように首を揺らした。

私は話を聞こうと彼の隣に座った。これまでも何度かあったシチュエーションである。彼はこの近くに住んでいて、私は仕事終わりに通るのだ。遠くにビルが見える静かな駅前の、錆びついたベンチである。

彼は有名人である。
堀川くん。毎週テレビに出ている。もちろん、私も知っていたから初めてここで見た時は驚いた。しかもタバコを吸っていることにより驚いた。彼はまだ小学生なのだから。

「なぜ、やる気をなくしてしまうんだ。私からしたら、君の立場というのは羨ましいものだけど」

「本気で言ってますか?」

本気で言ってるかと聞かれると、たしかに羨ましくなはい。話の相槌程度の軽い言葉だった。でも大切なのは私の些細な言葉の綾ではなく、彼のストレスについてである。

「で、何が気に入らないんだね」

「周りのやつらですよ」

「というと毎週でてる彼らか」

「ええ、サザエとか、カツオとか。あいつら、まったくやる気がないでしょ」

「そうかな」

「そうですよ。あいつらときたら、テレビに映ってるという意識が低すぎるんです。同業種の野原しんのすけとか、まる子とかは、その辺きちんとしている。特に、野原、野比あたりはプロ意識が高いのを感じます。自分が写ってる時は、その短い時間にどれだけ視聴者を楽しませようかと懸命になるんです。ギャグをするやら、失敗するやら。共演者との絶妙に笑いが生まれやすい関係作りも上手い。
 その反面、僕のまわりのやつらときたらどうです。普通に暮らして、普通に会話して、——家族団欒の時間あるでしょ」

「あるね、いつも決まって晩ご飯のとき」

「そうです。その場面を思い出してくださいよ。あいつらカメラに背中向けてるんです。ありえますか」

「考えたことなかったけど。……そんなに悪いことかな」

「僕だけが、頑張ってるみたいに思えて、その割に呼ばれる回数が増えるでもないし、評価が上がるでもない」

「いや、十分君は評価されてると思うよ。その話を聞くと確かに温度差を私も感じてきた。けれど君は頑張ってるよ。それがみんなに伝わってるということも確かだ」

「それがより問題でもあるわけですよ。僕が頑張ってもですね、周りがああだから、別に誰も見てないんですよ。サザエの登場人物でなければもっと呼ばれてたんじゃないかなとか、もっと評価されてたんじゃないかなとか。サザエは母数が小さいですから」

「それは、言ってもしょうがないじゃないか」

「だから、やる気をなくすんです」

「そうか」

彼はまたポケットに手を入れ、タバコをまさぐり出した。
私はまたそれを取り上げなくてはならなかった。

「なぜ展開を、こう……面白くしようと思わないんですかね。まだカツオはましですけど、フネとかマスオとか毎回出てる割に、ただ普通のことを喋るだけ。普通のことをするだけ」

「でもね、それも大切だよ」

「どういうことですか」

「君の話を聞いててね、それがサザエさんのあり方なんじゃないかって、一周して思ってきたんだ。普通がどこかを示すことって、難しいんだよ。その辺のアニメがそれをしようとするとすぐ打ち切りになるでしょ。ある種の権威がそれをしないと」

「本当に必要ですか。だいたい、普通って今の時代、あるとも思えないですし」

「それはそうかもね。でも、君が言ったようにサザエさんとクレヨンしんちゃんは相当違う。でもしんちゃんが舞台型というかね、視聴者がいることを意識した演技をする。それは確かに面白く受け入れられる。けれど例えば川端康成とか島崎藤村の小説なんかはそういう舞台的な演技は一切ない。それがそれまでの古い伝記的な小説と違ったから文学となったとするとね、そういうあり方のアニメもあるべきなんじゃないかな」

「サザエが、文学ですかね?」

「文学とも違うと思うけど、全部が全部同じような楽しさを追求し始めるとダメだとも思う。サザエさんは、これでいいというか、こうだからいいみたいな部分のあると思うよ」

「でも、見ますかね。……おじさんは先週の見ました?」

確かに見てない。

「見てない。けどそこを私に聞いても何にもならないよ。ちびまる子ちゃんもクレヨンしんちゃんも見てないんだから」

「僕はどうすればいいんですかね」

「少なくとも君だけは、そのままでいいと思うな。喜んでる人が多いから」

最後に堀川君は大きなため息をついた。

各駅停車の電車が背後で、徐々に音を緩め止まった。
夕暮れに薄くたなびく雲も、同じ瞬間、止まったような気がした。

「そろそろ門限なんで」

彼が立ち上がったので、私も帰宅することにした。

「それだけは貰っておくよ。以後買わないように」とタバコの箱は没収して。


次の日曜日、ふと思い出してテレビをつけてみた。
堀川くんは、理科室の人体模型とワルツを踊ったがワカメちゃんが嫉妬しないからという理由で機嫌を損ね、学校を早退していた。

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