水槽と口紅、脱出不可空間と構造

静かな晴れ空。
後味のしない一日になるはずだった。まるで水か、空気でも食べるみたいに。
僕は昨日と同じように深海の夢から自分の体を引きずり上げるため冷たい時計を掴む。顔を洗って、朝食にはヨーグルトに巨大な袋からかきだしたブルーベリーをのせて食べる。服を着る。

窓からは朝の柔らかい光が、沈むようにさしこんでいる。
僕は窓から大通りを見下ろした。まだ朝早く、まばらに人が通る。新聞屋、警察官、ジャージを着てランニングする老人。
その中に、優雅に青いベレー帽が歩く。僕の目はふとそのベレー帽に惹かれた。女性だった。
彼女は高層ビルの何に気を引かれたのだろうか。手でひさしをつくって上を向いた。僕の心は掻き乱された。おそよ七年間の無音の平静をやぶって。

職場であるアクアリウムショップ・カワセミへ出勤。
魚たちがライトに背中を照らされぬらぬらと踊る。あるいは逃げている。

機材のチェックと、商品の補充とを順番に進める僕の心は端的に欠けていた。もう真っ直ぐには転がらないビー玉みたく。欠片は絶対に見つからないどこかへ失って。

見つけ出すにはあまりに時間が過ぎていた。
探すにはあまりに多くの欠片に砕け散っていた。
魚に餌をやる。細かな餌が水に溶ける。

水槽に映った僕はしかし、あの頃の僕へと重なり始めていた。名札を垂らす赤い紐が突然浮き出るように目に入る。動悸。脳が記憶を鷲掴みにしてひっぱりだそうとするたびに、反響音がノイズのように響く。その五月蝿い記憶の唸りに重なって、水槽のライトが点滅する。僕は屈んでいた腰を伸ばして目を瞑る。

深く息ができなくなっていた。こめかみに汗が垂れるのを感じた。バイトの子の声が聞こえる。振り返って、挨拶を返した。



……七年前、この街はまだ赤かった。

「へー、綺麗。こういうのは、好きかも」
「テラリウムっていうんだ」

……水槽の中に作った別天地。小宇宙。

「紅葉ね」
「そう。もみじさ」

……彼女はなぜ教室にいたんだ?

「この石は?」
「赤碧玉。レッドジャスパーとも言ったりするやつ」
「ふーん」

……彼女はいついなくなったんだろう。



「何からしたらいいですか?」

白明くん。先日働き始めたバイトの子だ。三週間だけだが働いてくれるらしい。

つい最近学生の子がトんだから次の人員が見つかるまでに良い働き手を見つけた。こういう偶然は、僕はあまり有難いとは思わないんだけど。なにか、別の因果があるようで不安になる時がある。

「じゃあ、裏に段ボールがあるから、それを運んでくれるかな。それを淡水魚のコーナーの、隅のほうに置いてくれ。それから次の説明をするよ」

まだ働き始めて数日だが、理解力のあってまあまあ仕事のできる子だ。何やら旅をして生活をしているらしい。


旅。
彼女も旅をしていたような。
旅というより、放浪にちかい何か。浮草のように。流雲のように。

彼を見ていると、旅というものは人の精神を落ち着かせ、しなやかな強さをもたらすように思える。それが旅の効能かどうかはっきりはわからないが。けれど、自分がいまだに、僕よりずっと若いあの青年より子どもじみていることに、また心が欠けそうである。


開店の時間。
レジを作動させる。冷徹な機械に紙幣と小銭を食わせる。
BGMをながす。足音とおなじ程度の音量に設定する。小さく、薄く、細やかに。

ドアを開け、一度外へ出てみた。快晴である。向こうを自転車が走り抜けた。母親に手を引かれ、保育園にむかう少年。小枝をついばむ鳩。涼しい風。



七年前、この街はまだ赤かった。陸軍がひっきりなしに大通りを揺らしたし、不毛な土地を求めて資本家が金を賭けた。そのとき僕は学生だったから学校指定の赤いセーターを着て(この街の学校の制服は赤か緑のどちらかを選ぶのだ)辞書さえ開いていればよかった。部活動もしなかった。僕は戦争なんてまっぴらだった。少しでも戦争の匂いのするものは避けた。部活動も、新聞も、戦争の話をする教師も、父親も。

だから図書室で時代錯誤な外国の文学をよく読んでいた。表紙と裏表紙の中に閉じ込められた完璧な世界をそこに探した。本の中では暴力さえ、兵器さえ、火事さえ、リンチさえ、飢餓さえ一つの夢であった。それらを文字というガラスで覆い、文章で囲んで、こちらへ出てこないようにしているのだ。隔絶され鑑賞されるだけのそれは、僕にとって唯一の慰みであった。



「おはよっ」
「いらっしゃ……おお」
「ひま?」

開店早々店に入ってきたのは、通関士をしているハイド・ランジア。彼女とは大学からの知り合いで、当時はほとん面識もなかったが、卒業してからのここ二年で仕事の関係上交流をもつようになってから親しくなった。

「見ての通り」
とまだ客のいない店内を見せびらかす。「今から出勤?」

「今日は昼から。今週末のことなんだけどさ」


今週末の土曜に予定ができた。
夜は彼女とディナーを取る。取り繕わずにいうと、おそらく彼女は僕のことを友人以上に思っているだろうし、僕も彼女との時間や関係、相性は悪くないと思っている。

それに二人とも最近この街に増えた鍋料理が好きである。海外から流入した文化である鍋料理を彼女は国外勤務の思い出から、僕は昔からの異国趣味で好きだった。

白明くんは水槽にエサをいれている。
残りも任せられそうだ、自分は発注の仕事に取り掛かろう。

事務室へ向かう。振り返って店内を眺める。エサを測る乾いた音と、小さなBGMだけ聞こえる。ハイドもいなくなった、広い空間。

まただ。また頭が重たくなる。胸の中に錆の匂いのする風が通る。まるで穴が空いたように感じる。その穴に、味の悪い風が通る。そしてすべてが崩れてなくなってしまうような気がする。なにかが。いや、既に失っているのか。


昼を過ぎた。
本日の売り上げは、といって特別普段と変わるところはない。ささやかな収入。この店の収入のほとんどは外国への輸出である。白明くんが接客をしてくれている。明るいわけでも、口がうまいわけでもないが、妙に声を聞きたくなる性質をもっている子で、お客さんも彼が説明しだすと耳を澄ませて聞き、その結果何かに惹きつけられ、何かを買ってゆく。


ドアが開いてベルが鳴った。

「ありがとうございました〜」

反射で声が出る。その後にドアの方に視線を動かして、自分の間違いに気がついた。お客さんが帰ったのではなく、入ってきたのだ。不思議な顔でいまレジから離れた女性と白明くんが僕を見る。

しかし僕の意識は新しく入ってきた女性に集中する。イカが墨を吐いた映像を逆再生したように、視意識も、聞意識も、心意識もすべてが彼女というイカの口に吸い寄せられる。

「ひさしぶり」

その声は僕の背骨を抜き、心臓を裏返すのに十分の恐ろしさがあった。



赤い制服の僕は教室で文学を読む。背後から綺麗な指が伸びてくる。女性の指。イカの脚のようになめらかな。

窓から夕陽が差しこむ。いつまでも暮れないでくれと心のどこかで唱えている。

なぜなら、僕には二度とはないだろうサイコロ的な運命をもってきた、この時間とこの女性とがあるから。

彼女は僕の前にまで来て、本について尋ねた。正確にはこの本の作者について。

「彼の本が、この国でしか置いてないことは知ってる?」

彼女は……おそらく僕より一つか二つ年上だろう。少なくとも、そのくらいに見える。だから十九歳あたり。

不思議な服を着ている。みたことのない形。袖がアマリリスのようにひらいて波を形成して沈んでいる。首元は締まっていて襟はなく、そのままドレスのように膝下まで伸びている。

どこかの民族衣装だろうか。


「この本は……この国の作家ではありませんが」
「そう。でも戦争賛美主義で、ここ以外では発禁中なの」

と彼女は指先で机に触れ、その指をそのまま上げ、僕の目の前にもってくる。

「一冊でも多く集めてほしい。あたしのところに持ってきて」

小遣いを渡された。

「あたしがいなければ」と彼女は住所を書いた紙を差し出す。「ここに置いててくれたらいいから」


家には帰らない。
もっとずっと遅くなってから帰る。

僕の父親は戦争狂だ。だから僕と少しでも会話を始めれば二人とも顔を赤くして怒鳴りあう始末となる。それを父も知っているから、僕が夜更けてから帰ることに対して何も言わない。

「だから頼んだの」

と、本を持って行ったとき、彼女は言った。

「今晩はここで寝て行ったらどう?」

星がまばらに輝くしたで、風が街路樹の葉を揺らす。車は通らない。今は遠くで大砲や戦車の音もしない。静かになって僕たちは、日中それらがどこかで鳴っていたことに気づくのである。もうこういう生活は、二年以上続いているから。

「お腹すいたから、帰ることにするよ」
「ここでも食べられるわ。パンもあるし。たとえば、あたしにできるのは、別の国の簡単な料理になるんだけど」
と彼女は言った。



「どうしたの、レイ」
レイ。それが彼女の名だ。

白明くんが商品棚越しに首だけ伸ばして聞いている。
それを彼女はシカトして、僕の方へ近づいた。

「ひさしぶりね。あのときの恩返しに来たの」
「君は確か」
「もう、戦車は通ってないのね」

君にあってから僕の時間は止まっていた。そのことに……もうすでに戦車の音がなくなっていることにも、僕はこのとき気づいた。

「あの日、あたしの——」



そう、僕はその夜、彼女の口紅を。机に置かれたままだった彼女の口紅を、彼女がお風呂に入っている間にくすねて、満腹になった腹を抱えて家まで帰ったのだ。
次の朝、学校を休んだ。口紅を返そうと訪れると、もうそこに彼女はいなかった。大量の書籍とともに消えていた。



「——あたしのわがままで、迷惑をかけてごめんなさいね。本、集めてくれたのに」
彼女はそう言って微笑む。青いベレーを頭から取りながら。

あの頃と、変わらない瞳である。

「また旅の途中で?」
「ええ、南に向かって進んでるの。で、お金がなくなってね」
「仕事を?」
「いいえ、あたしはしないわ。彼が」

と白明くんのほうに視線をやる。

彼とは? ——どういう関係か。 という質問が、喉先でつっかかる。それは、僕には関係のないことだ。単なる下世話な興味。僕に、一つ彼女との接点があるとすれば、あの日の口紅が。

「また何処かで会いましょ」

と彼女は教科書通りの微笑みを僕に残して、白明くんの方へ行き、紙を渡した。白明くんは顎に手を当て探偵のような悩み顔だ。何を見ているのだろう。そして、何かを彼女に伝えた。


白明くんは多分何かを承諾したのだろう。それを聞いて彼女は満足げであった。

それから彼女は僕の方へ来て、

「大量に運びたいものがあるの。きっと、あの時の本よりたくさん。……交易に携わってる知り合いとかいないかしら?」
「えっと、じゃあ、今週末すぎてから」
「今週末にはあたしはいないと思う」
「じゃあ、……じゃあ、とりあえず今晩、もう一度来てくれ」
「この店に?」
「ああ」


彼女は帰った。
僕に可能性のない希望だけ残して。


僕は事務室の電話で、ハイドの職場にかけたが彼女は外へ出ていた。
頭の中はずっと意味のない思考を続けていた。何に繋がるわけもなく、どこかに出口があるわけでもない。ただ、漠然とした時間を埋めるためだけの思考、混沌とした未来にカーテンを閉ざすためだけの思考。そんな風で、白明くんが帰るまで、僕は何をしたか覚えていない。

自宅につき、さっそくハイドに連絡をとる。
彼女の家に電話をかけた。しかし、でない。仕事は終わっているはずだ。
そうだ口紅。
あの口紅がどこかにあるはずだ。


僕は帰宅してまだ水も飲まないで、今度は自分の部屋を探しはじめた。
そして口紅は机の奥に見つけた。青い口紅。青い……? あの時は、真っ赤な口紅だったと記憶している。床に微動を感じる。頭がくらくらする。自分が地面に対して真っ直ぐ立てている気がしない。バランスを失った体を揺らして、僕は部屋を出た。そして窓を見る、そこに戦車が通った。

生唾を飲み込む。電話がかかる。受話器を落とさないように力強く耳に押し当てるが、まるで水を溜めた壺の中で聞いているみたいに、そこにある女性の声は聞き取れなかった。


意識が戻った時、家のチャイムが鳴っていた。

いや、このチャイムで目が覚めたのだろう。僕は妙に軽い体を玄関まで運ぶ。来ていたのはハイドだった。

「どうしたの? 急に喋らなくなったと思って……。電話かけてもずっと通話中だから、倒れたのかと思った」

「ごめん」という言葉が咄嗟にでた。「仕事に関する話を一つしたくて」

彼女は少しの戸惑いを見せたが「ええ、何かしら」と受け入れることにしたらしい。

「話は、簡単なことなんだ」——輸送の手伝いをしてほしいだけで。ただ少し量が多いかも知れない。伝えるのはこれだけだ。


夜。僕は店で待っていた。彼女を。
数分座っているだけで、何ヶ月も時が経つような気がする。そして七年がすきたのだろうか。夕焼けはすっかり溶けてしまい、いまは青い夜空が両手に武器を持って挑みかかっていた。

床が揺れる。
低い地鳴りに似た響きが伝わってくる。戦車だ。戦車が通るのだ。
大砲のような音で、扉が開く。

彼女は赤いコートを靡かせ入ってきた。サングラスを外して、僕の前についた。

「広場の駅に十一時につく列車で用意ができてる」

「そう。ありがと」

紫色の戦車は微笑んで、部屋を後にした。

残された歩兵は後日、店も恋人も捨てどこかへ去った。
見たことのない空を探しに行ったのだ。

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