B36-2021-17 哲学の使い方 鷲田清一

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 ひょっとして自分には哲学の才能があるんじゃないかと思ってこれを読んだ。
 しかし、哲学はやはり哲学であった。いったいに何が書いてあるのか、さっぱりワカランという箇所がたくさんあった。いやほとんどのページがそうであった。
 私の理解にほど遠い学問がそこにはあった。
 だがしかし。読んで面白くなかったかといえば、そうではないのである。驚いたことに、たいへんおもしろかったのだ。読むほどに前つんのめりになっている自分がいる。
 ワカランながらも、んむ、ここは何となく入ってくるぞ、あるいは、これは何だか大事なことが書いているようだ、と思える箇所に付箋を貼り貼り読んだわけだが、気がつけば本はひらひらとした蝶々のような付箋のオンパレードになってしまった。
ひとつめの付箋は66頁からのこれ。

このように、政治、ケア、描画のいずれにおいてももっとも大事なことは、わからないもの、正解がないものに、わからないまま、正解がないまま、いかに正確に処するかということである。そういう頭の使い方をしなければならないのがわたしたちのリアルな社会であるのに、多くの人はそれとは反対方向に殺到する。わかりやすい言葉、わかりやすい説明をもとめるのだ。だがほんとうに大事なことは、困難な問題に直面したときに、すぐに結論を出さないで、問題がじぶんのなかで立体的に見えてくるまでいわば潜水しつづけるということである。

 まさにこの本を読んでいるときの私の心境が見透かされたかのような一節である。わかりやすい言葉を求めているいまの自分。すぐに理解したいと逸る心。そう焦ってはいけないとこの文章は伝えている。著者は、「知性に肺活量をつける」といった表現を使っている。自分の尺度を超えた壁にぶち当たった場合、辛抱や我慢が必要な時もあるのだ。あせってはいけない。

 ふたつめの付箋はここだ。165頁。

「現場」の、一点からは見通しえない動的な全体にたえずまなざしを漂わせていること、これは台所に立ったときの感覚に似ている。ありあわせの材料で献立を考えること、料理が冷めないようにどう工夫するか、片づけを調理のあいだにどううまく嵌め込むか、洗い物はいつするか、食器をどう収納するか、それに要不要の判断、材料費のやりくり、そしてその間も家族の様子をそれとなく窺うこと。そういうふうにまわりに眼をくばり、勘所を外すことなく、不定型にうごめく全体をケアしつづけること、そしてそこから考えるべきこと、直すべきことを取り出すこと。哲学でいえば、フィールドワークのさなかで問題を析出すること、そしてそれに応じうる概念を創造すること。じつに哲学は台所仕事に通じている。

 これは第3章、「哲学の臨床」の中の文章である。
 哲学をこのように身近な暮らしの風景に喩えているところが好きだ。こうしてあらためて読んでみると、なるほど哲学というものは料理をするなどの台所仕事と共通したところが多いにあるといえる。この斬新な視線。
 鷲田清一氏はこの本の中で、哲学は芸術家や大工のような職人にも存在するとあたりまえのように書いてもいる。だからこの比喩だって何も唐突なものではないのだ。

 「哲学の臨床」からもうひとつ引こう。

対話は、他人とおなじ考え、おなじ気持ちになるために試みられるのではない。語りあえば語りあうほど、他人とじぶんとの違いがより微細にわかるようになること、それが対話だ。「わかりあえない」「伝わらない」という戸惑いや痛みから出発すること、それは、不可解なものに身を開くことである。そのことで、ひとはより厚い対話を紡ぎだすことができるようになる。

 哲学カフェという催しについて、この本の中で述べている。肩書も出自も関係ない場所で、なんなら名前すら仮名でかまわないという集まりの中で、ひとつのテーマに沿って自分自身の考えを述べる。たとえば「幸福とは何か」について、とか。
 正解や答えはもちろんない。大事なのはよく見るために多くの眼をもつことだと鷲田清一は云う。
 正解や答えはないから、誰かが誰かの言葉を否定することはしない。否、できない。
 やがて議論に羽根が生えて、それはアドリブの効いたジャズのセッションになる。なんて有意義な時間なんだろう。言葉だけのやりとりの中で自然発生的に生ずるジャムセッションなんて、想像するだけで楽しい。
 言葉が空間で行き交う。その場にいるひとたちの思考が、肉眼では見えないが確かにそこに存在する。その時間と空間の中で見えない糸となって絡み合う。

 終章で引いたのはこの部分。239頁。詩人の言葉から。

「みえてはいるが誰れもみていないものをみえるようにするのが、詩だ」とは、やはり詩人の長田弘の言葉だが、「てつがく」についてもたぶんおなじことがいえる。

 凄まじい言葉だと、私は思った。
 ここ終章にきて、「哲学」を「てつがく」と表記するあたりが、何かを物語っているような気がする。
 この本を読んで、哲学について、何かを知ったかと問われればもちろん答えはNOだし、「哲学の使い方」がわかったかい?と訊かれたところで自分には哲学の才能がないのかもしれないと、ほんのり思う。けれども哲学への興味はさらにつのり、前のめりになって「てつがく」に喰いついていくことによって、もしかしたらその才がいつの日か覚醒することだってあるんじゃないか。そんな夢をみる。

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