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参考資料 後南朝 最後の古戦場跡

R169号線沿いの大滝ダムの西側に位置する寺尾村塩谷は、かつてダムによって水没した集落で知られています。

この地は、1457年12月2日に起こった「長禄の変」という歴史的事件の古戦場でもあります。

最後の古戦場跡

当時、南朝の後裔である自天王が南帝となるべく、赤松家の遺臣たちが足利幕府の密命を受け、上北山村滝川寺北山御所で自天王の宮を襲撃しました。

彼らは宮の御首と神器を奪い、京都へ逃げ帰ろうとしましたが、川上郷土士がこれを阻止しようとして激しい戦いが繰り広げられました。

後南朝古戦場跡から見るダム

1457年12月2日に起こった「長禄の変」という歴史的事件の古戦場である

現在、集落寺尾村塩谷はダム底に沈んでおり、様子を見ることはできない。

昔は大滝ダムが出来る前は、現在はダムで沈んでいるが、国道もあった。

後南朝 最後の古戦場
御首載石跡

また、湖底に沈んだとされる古い岩碑は、昭和34年の伊勢湾台風による激流で流されてしまい、既に失われていると言われている。

川上村は宮滝遺跡の先、国道169号線沿いにあります。
大滝ダムの西岸に「後南朝最後の古戦場」と「御首戴石跡」の碑が建っています。

【南朝自天王の戦跡】

ダム底に沈む集落は、むかし寺尾村塩谷村と呼んでいた。
長禄元年(1457)12月2日南朝の後胤で南帝となるべき自天王の宮を足利幕府の密命を受けた赤松家遺臣らによって上北山村瀧川寺北山御所で襲撃し、宮の御首と神爾を奪って京都に逃げ帰ろうとした敵集団を迎撃せんとこの地に集った川上郷士との間に激しい戦いが行われた古戦場跡です。
水没した塩谷川岸に陰岩、対岸寺尾の国道沿いに腰掛岩があり、この腰掛岩に休息中の敵将中村貞友らを、郷士の中で弓の名人と言われた大西助五郎ら、陰岩から強弓をもって射殺した。
また残敵も郷士らによって討ち取り御首及び神爾を奪還した。
時正に12月5日の夕暮れであった。
郷士たちは奪還した御首級神爾及び遺品を岩の上にお祀りし地に伏して慟哭、南朝の再興を誓いあった。
この史実を長禄の変と呼び延元元年南朝創始の年を去ること122年、後南朝の御血統はここに断絶するにいたった。
郷民協議のうえ宮の無念を偲び毎年2月5日の朝拝の儀が行なわれ今も絶ゆることなく続いている。
長禄の変以来540年ここに碑及び碑文を遺記し後世に永く伝えるものなり。
平成8年6月吉日
川上村朝拝


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