(仮)朝拝式の歴史1
約550年前の1457年、現在の川上村にて、南朝最末期の皇族である自天王(尊秀王)が北朝方に攻撃され命を落とし、その後病で亡くなった弟の忠義王の記憶を、忠実な地元の武士の子孫が称える「朝拝式」が5日、同村の福源寺で行われた。
この兄弟の死により、後醍醐天皇を起源とする南朝の歴史が終わった。朝拝式には東川、高原、白屋などの9地区から代表者が集結した。
菊の紋章が刺繍された公家装束を着た「出仕人」が神木の葉を口に含み、厳かな儀式に参加した。
宝蔵殿の扉が開かれると、淡い金色に輝く兜が現れ、七保筋目総代長が由来を述べ、約550年前に起こった出来事を伝えた。
高原地区には、「忠義王はここに逃げ込み、亡くなった」との伝説が残っている。
古い行政単位である「四保六保」の朝拝組総代のあいさつの後、大根の煮物が2切れ入った雑煮が振舞われた。
まず、自天親王神社の前に整列し、神事が行われた。祝詞や玉串を奉げる間、参列者は神木の葉を口に挟んだ。
本堂の裏手の石段を上がり、墓地を参拝した後、再び朝拝殿に戻り、総代が由来を読み上げて朝拝式は終了した。
「以前はお墓まで行列していたが、みんな年を取って足元が不安なので」と総代の言葉から、この時代に儀式を続ける難しさを感じた。礼拝後、参列者は墓地を参拝するために宝物殿を出た。
しかし、総代によれば、他の地区は「そちらでお願いします」と答えた。
元教育長は「無形文化財にし、村のイベントに変える。これにより"筋目"との間に若干の距離が生じるかもしれないが、保存のためにはそれが必要だ」と結論付けた。500年以上に渡り続いたこの儀式を終えるわけにはいかないが、観光目的の祭りにはしたくないとの考えを示した。
宮内庁が定めた自天王の墓は瀧川寺の境内に、忠義王の墓は金剛寺にあります。村民は以前から、金剛寺にある2つの墓石を自天王と忠義王の墓と見なし、尊崇してきた。
何とか村長を説得した長老たちは、その後何度も上京し、撤回を申し立てたが、宮内庁は一度決定したことを変更することはないと拒否した。川上村の教育長によれば、現在は村の流動資産の一部となっており、区別はつかないとのこと。
明治37年(1904年)に瀧川寺の住職になった林水月の顕彰碑を見て、事の全貌が明らかになった。
今年の550年祭にあたり、瀧川寺の住職はその歌を刻んだ記念碑を陵墓の前に建てたいと募金運動を開始した。
不幸な終わりを迎えた南朝最後の皇族、自天王(尊秀王)を偲び、毎年2月5日に川上村の2つの寺で行われてきた「朝拝式」が、今年の550年祭をきっかけに統一されることになった。
初期の頃のように1つの場所で行われていた儀式を元に戻し、村の無形民俗文化財として継続することが目指されている。
自天王の遺品である兜(重要文化財)は福源寺で、鎧(同)や太刀(村指定文化財)は金剛寺で保存されてきたが、儀式の統一に伴い、兜を金剛寺へ移した。
朝拝式は神式であり、村内23地区から1人ずつの「筋目」が公家装束で「自天親王神社」に参拝した後、宝蔵庫の扉を開け、自天王の遺品に敬意を表します。その後、墓地に参拝し、最後に朝拝殿で代表者が由来書を読み上げます。寛永2年から3つの場所で、そして昭和56年(1981年)からは2つの場所で行われてきた儀式が、382年ぶりに一つにまとめられることになりました。
朝拝式は、「筋目」と呼ばれる郷士の家系が受け継いできました。昭和31年の500年祭など、節目ごとに統一の動きがありましたが、実現することはありませんでした。
南朝最後の皇族で、復興を目指しながらも不運な最期を遂げた皇子・自天王を偲び、毎年2月5日に川上村の2つの寺院で行われてきた「朝拝式」が、今年の550年祭をきっかけに約380年ぶりに統一されることとなりました。
朝拝式は、自天王の首を奪い返した赤松一族から、村の郷士らが翌年の2月5日に王を追悼して始めたとされています。
寛永2年以降は村の北部、中部、南部の3つの地区で行われてきましたが、昭和56年にはこのうち中南部の「四保六保」地区が統一され、北部の「七保」地区は福源寺で行われてきました。
550年祭を機に保存会形式に移行し、儀式を一本化するとともに、来年からは「筋目」以外の参加も認めることを決めました。
村内23地区の筋目が公家装束で集まり、宮中の正月行事「朝賀拝礼式」に倣い、寺の境内の自天親王神社を参拝した後、扉を開けた宝蔵庫で朝拝の儀を行い、墓地に参拝した後に総代が由来書を読み上げます。
村教育委員会の教育長は、「長年、『筋目』が守ってきた儀式だが、文化財として守る道もある。そのためにも『筋目』以外の村民の協力が不可欠」と語り、今後、村の無形民俗文化財として保護される方向性が検討されています。
今年は550年祭を迎えるにあたり、寛永2年以来分かれて行われてきた儀式を一つにまとめることとなりました。自天王を討った村民の家系の約20人が公家装束で参列しました。
この統一は、かつての儀式の始まりである赤松一族による自天王の首奪還と金剛寺での埋葬を偲び、毎年2月5日に行われてきたものです。
以前は寺の境内を分けて儀式が行われていましたが、今回の550年祭を機に保存のための組織が設立され、儀式を一本化し存続させることとなりました。また、来年からは「筋目」以外の参加も認められることになりました。
朝拝式は、村内23地区の筋目が公家装束で集まり、自天親王神社の参拝後に宝蔵庫の扉を開け、自天王の遺品に敬意を表します。その後、墓地を参拝し、最後に朝拝殿で総代が由来書を読み上げます。
川上村の教育長は、「長年にわたり『筋目』が守り続けてきた儀式ですが、文化財として保存するためには『筋目』以外の村民の協力も不可欠です。今後は村の無形民俗文化財として保護される方向性も検討されるでしょう」と述べています。
550年祭を迎える今年、寛永2年以来分かれて行われてきた式典を一本化することで、自天王の思い出を偲び、村の無形民俗文化財として存続させることが狙いとなっています。
掲載画像 当方で撮影
(奈良新聞2005-02-06)(朝日新聞2006-05-12)(朝日新聞2006-05-19)(朝日新聞2006-05-26)(朝日新聞2007-01-25)(奈良新聞2007-02-03)(産経新聞2007-02-05)(奈良新聞2007-02-06)参考文献
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