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 飛騨の鬼神 両面宿儺の伝説 概要編

最初に両面宿儺の伝説を浅めにwikipediaを参考にして、少し深掘りしていきます。


1,日本書紀に「両面宿儺」登場する。

位山

『日本書紀』仁徳天皇65年の条に両面宿儺が登場する。

六十五年 飛騨國有一人 曰宿儺 其爲人 壹體有兩面 面各相背 頂合無項 各有手足 其有膝而無膕踵 力多以輕捷 左右佩劒 四手並用弓矢 是以 不随皇命 掠略人民爲樂 於是 遣和珥臣祖難波根子武振熊而誅之

(現代語訳)
六十五年、飛騨国にひとりの人がいた。宿儺という。一つの胴体に二つの顔があり、それぞれ反対側を向いていた。頭頂は合してうなじがなく、胴体のそれぞれに手足があり、膝はあるがひかがみと踵がなかった。力強く軽捷(けいしょう)で、左右に剣を帯び、四つの手で二張りの弓矢を用いた。そこで皇命(すめらみこと)に従わず、人民から略奪することを楽しんでいた。それゆえ和珥臣(わにうじ)の祖、難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)を遣わしてこれを誅した。

wikipediaより

「両面宿儺」は、日本の伝説や民話に登場する怪物(妖怪)の一種で、一つの体に人間と鬼の二つの顔を持つと言われています。通常、人間の顔は前に、鬼の顔は後ろに位置しているとされています。

両面宿儺の名前は「宿儺(すくな)」という古代インドの鬼神から来ていると考えられています。日本に伝わった際、この怪物は一つの体に二つの顔を持つ特異な姿として描かれるようになりました。

両面宿儺に関する具体的な伝説は多くないですが、一部では、人間の顔で人々を騙し、鬼の顔で恐怖を煽るといった話が伝えられています。

また、彼らはその二つの顔を使い分けて、人間を混乱させたり、恐怖心を煽ったりするとも言われています。

2,岐阜県の在地伝承

2-1 金山の伝承

金山の鎮守山

金山の伝承[編集]
『金山町誌』によれば、武振熊命が討伐に来ることを知った飛騨の豪族両面宿儺は、八賀郷日面出羽ヶ平を出て金山の鎮守山に37日間留まり、津保の高沢山に進んで立てこもったが、敗れて討死したという。これには異伝があり、出波平から金山の小山に飛来した両面宿儺は37日間大陀羅尼を唱え、国家安全・五穀豊穣を祈念して高沢山へ去った。故にこの山を鎮守山と呼び村人が観音堂を建てて祭ったともいう

wikipediaより

飛騨の豪族、両面宿儺が武振熊命に討たれる前の行動について『金山町誌』には二つの話が存在します。

一つ目の話では、両面宿儺が金山の鎮守山で37日間過ごし、その後、津保の高沢山に移動し、ここで敗北、死亡したとされています。

しかしながら、別の話では、両面宿儺が出波平から金山の小山に移動し、37日間、大陀羅尼を唱えながら平和と豊かな収穫を願い、その後、高沢山に向かったと記述されています。

そして、この小山は鎮守山と称され、観音堂が建てられ、村人により祀られるようになったとされています。

2-2 関市下之保の伝承

日龍峰寺

関市下之保の伝承[編集]
『新撰美濃志』に引く大日山日龍峰寺の寺伝では、飛騨国に居た両面四臂の異人が、高沢山の毒龍を制伏したとする。その後行基が伽藍を創建し千手観音の像を安置した。千本桧はこの異人が地に挿した杖が生い茂ったものという。或いはこの異人は、飛騨より高沢山に移ってのち、霊夢の告により観音の分身となったともいう。また、『美濃国観音巡礼記』には日龍峰寺の開基を「両面四手上人」としている[9]
この他に、両面宿儺を討った武振熊命の建立と伝わる八幡社が飛騨各地にある。

wikipediaより

古代の飛騨国に異人が存在し、その者が高沢山の毒龍を鎮めたという伝承が大日山日龍峰寺に伝わっている。

後に行基によって寺が建立され、千手観音が祀られた。その異人が使った杖から千本桧が生えたとも言われている。

異人は観音の化身になったとも伝えられている。

日龍峰寺の創立者は「両面四手上人」と記されている。

また、飛騨地方には両面宿儺を退治したとされる武振熊命の由来を持つ八幡社が点在している。

2-3 関市肥田瀬の伝承

金龍山 暁堂寺

金龍山 暁堂寺 この寺の創建は古く平安時代にまで遡ることができます。

開創時は天台宗に属し、寺号を『円通寺』と称しました。

文永年間(一二六四年~一二七五年)に不慮の火災に遭い、ご本尊聖観世音菩薩のご本体をのぞく悉くを焼失したと伝えられております。

以来、ご本尊のみを安置する仮堂をつくり、ようやく雨露を凌いでおりましたが、宝永二年(一七〇五年)暁堂和尚が近郷の里人の寄進を募って堂宇を再建し、以後、寺名を『暁堂寺(庵)』と改め、曹洞宗の禅寺として今日に至っております。

安置するご本尊は、平安後期の作風をにじませる等身大、一木彫眼の聖観世音菩薩立像で、昭和四十五年には、関では最も古い佛像の一つとして市の重要文化財に指定されました。

仁徳天皇の御世、飛騨(斐太・肥田)の国八賀の里の異人『両面宿儺』(りょうめんすくな・両面僧都)がこの地に宿営し、一夜、夢枕にたった金龍のお告げにしたがって、五穀の豊穣と国土の安穏、住民の和楽を祈願しつつ彫り上げたもの。

ご尊容は大慈大悲の観音菩薩にふさわしく温和で慈愛に満ち、高邁な気品に溢れております。古来、この観音像は秘佛とされており、普段はかたく扉を閉ざして秘され、わずかに七年に一度の開扉会の期間中のみ、このご尊容を拝していただくこととなっております。

ご本尊 聖観世音菩薩立像 昭和四十五年十月二十一日 関市重要文化財指定(解説板)

2-4 丹生川の伝承

飛騨 千光寺

丹生川の伝承
元和7年(1621年)の奥書を持つ『千光寺記』には、高山市丹生川町下保にある袈裟山千光寺 (高山市)の縁起が記されている。これによれば、仁徳帝のころ飛騨国に宿儺という者があり、八賀郷日面(ひよも)出羽ヶ平(でわがひら)の岩窟中より出現した。身のたけは十八丈、一頭に両面四肘両脚を有する救世観音の化身であり、千光寺を開いた。このとき山頂の土中に石棺があり、法華経一部・袈裟一帖・千手観音の像一躯を得たという[5]。同じく丹生川町日面の善久寺の創建も両面宿儺大士と伝え、本尊釈迦如来のほかに両面宿儺の木像を安置する[6]。
また、位山(高山市一宮町)の鬼「七儺」を、両面宿儺が天皇の命により討ったともされる[7]。位山の付近には飛騨一宮水無神社(ひだいちのみや みなしじんじゃ)があるが、享保年間に編纂された『飛州志』では神宝の一つとして「七難の頭髪」を挙げ、神主家の説として鬼神七難が神威により誅伐された伝承を記す。

wikipediaより

高山市の千光寺の縁起は、仁徳帝の時代に飛騨国に現れた宿儺という存在が創建したとされています。

宿儺は18丈の身長と両面四肘両脚を持つ救世観音の化身で、千光寺を開いた際に、石棺とともに法華経、袈裟、千手観音の像を発見しました。

同地域の善久寺も同じ宿儺の伝説と結びついており、また位山の鬼、七儺は宿儺が天皇の命令で退治したとされています。

位山近くの飛騨一宮水無神社には、「七難の頭髪」という神宝があり、これは鬼神七難が神威によって討たれたとの伝説が残されています。

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