今年の振り返り

日付が回り、今年も残すところあと1日になった。
ここ数年は忘れられない出来事が多くあった。一昨年に結婚&息子の誕生、昨年は元妻・息子と過ごす初めての1年で何もかもが初めてのことだった。息子が可愛すぎてそれが生きる活力になっていた。そういう癖は全く無いが(下ネタや下品な話は好きだが)、生まれてしばらくは本当に息子のウ◯コ食えるなと思っていたくらい可愛かった。離乳食を食べ始めて大人に近い臭いウ◯コをするようになったあたりで、食えると思っていた自分をぶん殴りたいと思いながら、えづきながらおむつ交換をすることになるのだが。それも懐かしい。

今年はさらに一生忘れられない出来事が生じた、離婚である。原因は自分にあるのだが、冗談抜きで人生で一番精神をすり減らした出来事だった。自分にとってどれくらいすり減ったかというと、高校時代に部活の先輩から顔パンパン痣ができるほど受けた暴力・暴言とか、医学部受験とか、2ヶ月間腹痛・微熱・血便が続いたときとか、医師国家試験とか、連続35時間勤務がザラにあったブラックな時の医者生活とか全部合算しても離婚ですり減らした精神の比にすらならない位すり減らした。控えめに言って生きている意味がなくなったと思ったし、死んだほうが楽だなとも思った。楽に死ねる方法ないかなとか考えていたし、ふと目に入ったドアノブにネクタイかベルトかけたらきっと死ねるなとか考えた。しかし、実際は勇気が出ずに死ねなかった。死んだとしても自分という1個体が消滅するだけで世界はいつも通りの時間が流れるに違いない。どうせ死ぬ時は死ぬし、問題なく生きていられる間は生かせておいてもらったほうが良いだろう。自分が死んで喜ぶ人も居るだろうが悲しんでくれる人も多少は居そうだった。今まで生きるとか死ぬとかについて考えを巡らせてこなかったからこんな浅い考えしか出来なかったが、そう考えると自ら死ぬということは自分にはあまり意味がなさそうに感じた。そして、今まで元妻をはじめ色んな人を傷つけて生きてきて自分が離婚で傷ついたから死ぬっていう選択は、また誰かしらを傷つけて自分は楽になるっていう短絡的で加害的でフェアじゃない選択に思えた。何より、いつか息子が自分を必要としてくれる時が来た時に既に自ら命を絶ってこの世にいないと息子が知ったらどう思うだろうか。そう思うと、やっぱり死ぬという選択はベターじゃないし、自分が辛くても責任を持って生きていく必要があった。

ただ、精神をすり減らしてどん底(と自分は思っている)まで落ちた経験のお陰で、今まで気が付かずにいた人の優しさや気遣いに触れ、支えてもらえることへの感謝をひしひしと感じる機会になった。自分も誰かにさりげない優しさや気遣いを施せる人間になりたいと思った。誰かにありがとうと言ってもらえる喜びや、ありがとうを伝えずにはいられない気遣いを与えてもらえる事は、心温まる・安らぐ事なんだと知った。

自分が加害的になった経験やそれに基づく思考・信念に辿り着く事もできた。その加害的な信念を変えるためにはどうしたら良いのか、つまりはひたすら他者にケアを与え続けるということなのだが、変容に必要なプロセスを学ぶことも出来た。暇があればnoteでモラハラ・自己受容など検索して色んな方の考えを参考にもするようになった。

もし、あの時元妻にかけた心無い思いやりもない言葉を飲み込んでいたら、元妻が一緒に居てくれることや日常生活を支えてくれて家族のために思いやりを持ってケアしてくれている事に感謝し自分もケアを返していたら、今も家族の形を保っていれたのかもしれない。でも、既に吐き出してしまった思いやりのない言動や態度は回収する事はできない。離婚は耐え難く辛い出来事で今年のことは一生忘れないだろう。ただ、この経験から自分が変わっていかないといけない理由や、変わっていく目的、変わることで他者とどれくらい良好な関係が築けるようになるのか、これらを知り、少しずつでも良き人間になっていけるのであれば、いつかこれも必要な経験だったと振り返ることが出来るようになるのかもしれない。そう振り返ることが出来るようにまた新しい1日を積み重ねて行きたいと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?