ダーツのプロの世界に飛び込む話 vol.3

前回の記事投稿から、気づけば1年半が経ってしまった。

誰に読んでほしいというわけでもないが、過去を振り返ると、辛い思い出も同時に蘇ってきて、全く筆が進まなかった。その1年半の間、感情に任せて書き連ねてみるも、あれこれと取り留めのない文章が出来上がり、自分自身に嫌気が差すこともあった。これもまた筆が進まなかった理由の一つだろう。vol.1とvol.2では表現方法が異なるが、今作では、淡々と心情を綴ることに専念しようと思う。最後のvol.3、なんとか書き終えようと思う。

前回、私はプロを目指した理由について話した。続く回では、プロ生活初期の挫折について語った。そして、今回は、もし結果が出なければ潔く引退しようと決意したその後から、今に至るまでをお届けする。これが最後のnoteだと思う。気軽に読んでほしい。

プロ資格を取得した2012年から2016年まで、私のプロとしての収入はゼロだった。ゼロって、どうなのか。夢も希望もあったはずなのに、現実はずいぶんとくすんでいた。「お金がない」「勝てない」「稼げない」――三拍子揃った暗黒期だった。

「もう嫌なら辞めちゃえば?」そんな声が頭の中でささやいていた。でも、辞めたくない気持ちもどこかにあった。あと少しで何か掴めそうな気がしていたのだ。しかし、時間もお金も限界がある。そんな矛盾を抱えて、私は葛藤の日々を送った。なぜプロを続けるのか?正直その問いは今でもくすぶり続けている。

それでもある日、私は決心した。「最後に一度本気でやって、結果が出なければ潔く辞めよう」と。そして、2017年、私は節約生活に突入した。とにかく徹底的に切り詰めた。試合は最低限、関東で行われるものだけ。練習もダーツバーではなく、漫画喫茶やサポートを受けている店舗で。節約のために、ダーツの楽しみである人との交流も我慢することにした。

食事は1日2回、袋麺とお米をメインにするという、学生時代に戻ったような食生活だ。お金を使わないためにキャッシュカードも持たない生活は、色々新たな発見があって意外と楽しかった。もちろん、健康は大事だが、その時の私は貯金が最優先だった。

そんな無理がたたり、痩せこけて風邪を引きやすくなったのは紛れもない事実だ。SNSでも後ろ向きな発言が増え、そんな投稿ばかりでは他者の応援など期待できるはずもない。むしろ、冷やかしの声が多かったくらいだ。それでも、嘲笑う声には耳を貸さなかった。自分の道を信じていたからだ。

この生活を誰かに勧めるつもりはない。むしろ止めておきたい。健康は大事だ。私も、一歩間違えれば死にかけていたかもしれない。

そして迎えた2018年。節約の成果として、目標の資金の6割を貯めることができた。足りない分は、月々の給料からなんとかやりくりする。ついに、全戦参加への道が開けた。

2012年~2016年の間、自信の無さから、試合直前にセッティングやフォームを変えたりしていた。何かを掴みたくて、手当たり次第に試してみた。完璧を追い求めるのは大事なことだが、試合には計画性が必要だと気づいた。漠然とした「ベスト16に入りたい」という目標だけでは、努力が空回りすることもあるのだ。

だから、私は試合スケジュールを頭に叩き込み、一夜漬けの調整をしないように心がけた。試合前だけ頑張っても、それは現実逃避に過ぎない。今年を言い訳で終わらせるわけにはいかない、そう強く思ったのだ。


少し話がそれるが、前作で木山さんの仏門に入門したことをプロへの第一歩と表現したが、厳密にはそれだけではない。赤松さんの存在がなければ、今の私は存在しなかっただろう。安定した体軸、力のロスがまったくないスムーズなスローイング。その洗練された技術と、時折吠えるような熱いプレースタイルに、私は自然と憧れを抱くようになっていた。何度も動画を撮らせてもらい、参考にしようと試みたが、その凄さに圧倒され、挫折を繰り返す日々が続いた。

私がダーツを始める前から最前線で戦っていた赤松さんは、自身が培ってきた技術や戦術などあらゆる面で惜しみなく教えてくれた。この頃、ちょうど「4スタンス」という言葉が世に出始め、赤松さんはその分野でも雑誌の取材を受けるほどの第一人者だったと思う。あの頃、確かにダーツの世界には新しい風が吹いていた。

最先端の情報を取り入れた指導に加え、津村さんと話していたセッティングへのこだわりも尋常ではなく、二人が試行錯誤を繰り返す姿は、私すらも驚かせるものだった。そんな彼らに話題で追いつこうと必死で勉強(盗み聞き)し、仏門で叩き上げられた粗削りな土台をプロとして戦えるまでブラッシュアップしてくれた二人には、今でも感謝の気持ちが尽きない。

この当時は、赤松さんの指導の下でカウントアップで1200点も毎月のように出せていた(今では多くの人が当たり前のように出している状況だが…)。
当時の1200点は、まさに誇るべきものだった。

調子が悪くなると、赤松さんのスローを見て学ぶことで、心の支えとなっていた。私にとっての全てのお手本であり、大会では会場で一番初めに赤松さんを探し、そのプレイを観察することで自信を取り戻していた。

今やJAPANの解説者としてその博識ぶりを発揮している赤松さんだが、選手としても超一流の実力を誇っている。いつの日か、再び同じ大会の舞台で対戦できることを、心から楽しみにしています。その瞬間が訪れることを夢見て、私は今でも日々精進を重ねていく。


そして、忘れられない2018年STAGE3愛知大会。私は初めて入れ替え戦に進んだ。対戦相手は誰もが知る柴田選手。その日のX(旧Twitter)には「調子がいい」と書かれていて、少し不安になったが、それ以上に初めての入れ替え戦に臨む高揚感が勝った。がむしゃらという言葉の代替がきかないほどに、自分の全てを賭けて臨んだこの試合の記憶はほとんどないが、終わった後、応援してくれていた落合さんと抱き合って泣きながら喜んだ瞬間だけは、鮮明に覚えている。

長かった6年間の苦しみが、ようやく報われた瞬間だった。

他者から見れば、私は圧倒的に恵まれた環境にいたのかもしれない。それでも、スローラインに立てば求められるのはただ一つ、勝つことのみ。JAPANという大会では、勝利することで初めて大きな評価を得られる。そして、そこにいる誰もが同じように努力していることは、言うまでもない。

この年は18試合中、11回の入替戦に挑むことができた。しかし、そのうち勝てたのはわずか4試合だけだった。それでも、自分としては上々の成果だったと思う。予選からのトーナメントでも、「この山には中村がいる」と多少なりとも警戒されたのは、評価として非常に光栄なことだった。

2018年を戦い抜き、予定していた全戦参加に加え、目標としていたJAPAN16への入賞を達成した私は、この舞台で戦う自信を得た。そして、プロ活動を本格的に生活の一部として取り入れていくこととなった。

いつぞやの後ろ向きな自分が消え、生まれ変わったような感覚を覚えるほど、生活は大きく変わっていったと思う。

しかし、人生はそううまくいかないもので、いくつかの大きな浮き沈みが待ち構えていた。

これからの活動に前向きな姿勢を見せた矢先、コロナによって社会活動が大きく制限されることとなった。まるでこれまでの経験値がリセットされてしまうような感覚を覚えた。選手としての生活を終える決断をする者も少なからずいた。

去っていく人もいれば、新たに芽を出す人もいる。2020年には試合が1試合もなく、2021年はまだ探り探りの状態で再開された。この年は衝撃的だった。他団体からの多数の移籍があり、試合を求めて多くの人がJAPANに集結した。若手選手の台頭も始まり、それまで勝てていたレベルでは到底太刀打ちできないほど全体のレベルが大幅にアップした年でもあった。

コロナに負けず、虎視眈々と準備を整えていた私は、試合では人生初の予選順位1位で入替戦に進むも敗戦。しかし、感覚自体は悪くなかったため、次の試合以降も調子を上げ、ついには自身最高の3位タイへと上り詰めることができた。

このまま上位を目指して走り切ろうと思った矢先、思いもよらぬ試練が待ち受けていた。それが、グリップイップスである。これまで一度も経験したことのない、ダーツを持つことさえ困難になってしまった。かろうじて指に乗せて投げるといった状態で、選手としては致命的だった。18に届きそうだったレーティングも14まで落ち、再び暗黒期へと転落した。

とにかく投げることが苦痛である中で、周りの試合のレベルは上昇の一途を辿るばかりだった。かつて戦えていた自分を美化しすぎてしまい、現実を受け入れることができなかった。あの時の成績は一過性のものだったと辛らつな言葉を浴びせられることもあった。もうあの時の自分には戻れないのではないかと感じ、さらに自分自身も去っていく一人になるのではないかと思い知らされた。

その中で唯一の救いだったのが、原嶋の存在だ。彼は私の元同僚で、現在は独立してDPLというダーツレッスンを行っている。昔から私を見てくれていた彼に助けを求め、ほぼゼロからの再構築を目指すことにした。彼のロジックは、「どうすれば良くなるのか」よりも「なぜこうなってしまうのか」を優先的に説明してくれるもので、私には非常に受け入れやすかった。できる動きとできない動きを明確にしてくれた。その指導をもとに自分で考えることが重要な部分ではあるが、ある程度の時間を要するのは間違いない。しかし、仏門をこなした私にはなんら問題のない作業だった。もしかしたら、受講したらすぐに上手くなることを求める人もいるかもしれないが、それは難しいと思う。苦しい中でも復活を信じて続けられたのは、彼の親しみやすいキャラクターが大きな支えとなったからだ。

今ではその暗黒期を抜け、再びJAPANの戦場で戦うことを選んで進み続けている。しかし、復調までの道のりは思い出すのも辛く、これまでの数年の出来事を振り返りながらこの記事を書いていると疲れてきたので、詳細については割愛させていただく。


今は全盛期ほどではないけれど(いや、また過去を美化してるのかもしれない)、試合に出るのが楽しいと思えるくらいには回復している。厚すぎる選手層に苦戦しながらも、その道のりを楽しめているのは、やっぱり応援してくれるファンの存在が大きい。これはもう疑う余地もない。メーカーやスポンサーショップ、妻や両親の支えがあって、私はずっと恵まれてきたし、これからもそう感じ続けるんだろう。

ダーツを始めてから、気がつけば16年が経っている。いろんな人に出会い、またいろんな人と離れてきた。上手くなったと自信を持てば、すぐに通用しない壁にぶち当たり、落ち込むこともしょっちゅうだった。浮き沈みの激しいダーツ人生だけど、これだけ長く続けられているのは、結局のところ、ダーツが好きでたまらないからなんだろうな、と。ありきたりな感想だ。

最後の方では、文字を打つ指が疲れてしまい、いくつか省略した部分もある。自分語りが「俺が最初にやっていた頃は~」と3部にもわたって書き連ねたがもう十分だ。むしろ、書きすぎてまた自己嫌悪に陥りそうな気がするから、ここでおしまいにしよう。

こうして、さまざまな偶然が重なり、自分がプロの世界に飛び込む話を綴ることができた。プロになることがダーツの世界でのゴールだとも、正解だとも、微塵も思っていない。むしろプロにならなかったらこんなに苦しむこともなかったのではと思うくらいだ。

しかし、これからもプロの舞台で活動を続けるつもりだ。1万人に知られるようなプレイヤーではないし、一度もてっぺんを取ったこともない。

でも、この投稿の後、いつか良い報告ができるようになるまで、頑張っていこうと思っている。


この記事を最後まで読んでくれてありがとう。

〜ダーツのプロの世界に飛び込む話〜

おしまい


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