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根明、弁明 -2024年7月3日の日記

□7月3日
基本的に毎日家に居るため、つい一日中YouTubeなどを見てしまうのだけど、たまに半日外出して、帰ってきてから10時間以上ぶりとかに観るYouTubeが結構気持ちイイ。

ずっとインターネットをしてると徐々に鬱になっていく。
何かを生んでる時間、何かを生むための何かをする時間(外出や映画や読書など)、何かを生むためでもなく無為に時間を消費する時間、この三つのバランスがいい感じだと心が健康でいられる実感。

↑ 時間と実感で図らずも韻を踏んでいる。



一昨日書いた日記がちょっと良くない気がしたので非公開にした。
時には何も言わないほうがいいときがある。

言わなくていいことを言わなくていいと、言う前に判断できたら良い。けども、言うことで広がる世界もある。この判断が私にはまだ難しい…。しかしそんな判断上手く出来てる人の方が少数だよな多分。少しずつやっていこう。もっと大人になったら上手くやれるようになるさ。


いや待て。noteに日記を書き始めたとき私は、脳から直接出力されるような撮って出し的なものを書きたくて始めたんだった。誰かの目を気にして何かを言うのを躊躇うようでは、まるで昨今のコンプライアンス社会にビクつきながら迎合していく、私たちが一番なりたくない大人の姿ではないですか?(すぐ主語を”私たち”とか”我々”とかにして他人を巻き込む悪癖がある)

別に悪い事ではないんだけどね、コンプライアンスも大事だ。誰かを不快にさせないようにって想いは尊いものだと思うよ。


一昨日の日記を非公開にしたのは、別にコンプラ違反とか過激な事を言った訳では無いんだけども、一昨日書いた段階からまた色々考えていたら考えが変わってきたからだ。

一昨日の日記の私はちょっとダサかった。何でもないようなことで凹んでしまうナイーブなオタクだった。私は普段は全然ナイーブな方じゃない、なんならクヨクヨしている人がちょっと苦手なくらいだ。実際、一昨日の私はそこまでめちゃくちゃ凹んでた訳ではなく、胸中の感情を丁寧に拾いながらひとつひとつ言語化してみたらちょっと繊細な雰囲気になってしまったのだ。

それと、話題にしたものの界隈では所謂”女ファンの痛さ”について言及されるシーンがネット上で散見されるため、まさにそれそのものになっているのではないかという恥ずかしさを感じてしまい、その恥ずかしさを感じること自体にも己の青さを認識して何もかも嫌になってしまったのだった。

そもそも痛いという表現については思うところが多い。痛さの定義とは、何をしたら痛いことになるのか、痛かったとてそれは悪ではないし、まあ痛さの方向性によってはそれがコミュニティの崩壊に繋がる可能性も無いとは言えないが。

痛いファンになりたくないという青臭い認識を持つことの是非。

さっき女ファンの痛さ、という言い方をしたが一昨日の私の日記の内容に性別は関係無い。たまたま私が女だっただけで、それは内容とは繋がらない。性別関係無く、ただのナイーブ、妙な執着心、それだけだった。

日記を再公開するかどうかは悩ましいところだ。あとでもう一度読み直して決めよう。(追記:再公開しません)

浮かぶ考えをできるだけ拾って打ち込んでたらまた繊細な雰囲気になってきた。私は悲しさ・寂しさ・怒りなどの負の感情がたぶん他の人より乏しい…いやこれもなんかまた違う中二的な痛さになりそうだけど。でも本当に割りと無い寄りなので、暗そうな文章を打っていても全然凹んでいないのだ。

鬱というのも私にとっては負の感情ではなく、無に近い。何も楽しいことが無い状態を鬱と呼んでいる。病気の鬱とは少し違うかもしれない、知らないけど。


鬱について書きながらも、明日の昼飯にと買ったポケモンパンのおまけシールが今から楽しみだなとかも考えている。今はほぼ毎日ポケモンパンを食べてシールを集めている。シール帳の裏表紙にびっしり貼る予定なのだ。

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