鬼滅の刃 3つの違和感

個人的に、アニメにはあまり興味がないが、それでも、ジブリ作品は好きなものがたくさんある。

今回の鬼滅の刃も、アニメという点で全く興味は湧かなかったが、それでも、あまりにも素晴らしい素晴らしいと社会現象になっているので、とりあえず見ておこうと、アマゾンプライムでアニメを見て、映画も見てきた。

その上で、やはり、正直、なぜそんなに世間が鬼滅鬼滅と騒いでいるのか理解ができない。

なぜ、自分がストーリーに素直に没入出来ないのか考えてみると、大きく以下の3点に集約することが出来そうだ。

尚、念のためお断りしておくが、特にフィクションなんてツッコミどころはいくらでもあるもので、揚げ足をとるつもりもなければ、だから良い作品ではない、と言いたい訳ではない。

鬼滅の刃が大好きで、余計な水を差されたくないという方は、ここで引き返されることをお勧めします。

それでは、一つ目、鬼滅は家族愛が素晴らしい、という件。

鬼滅は家族愛が素晴らしい、と、みんな口を揃えて言うのだが。

タンジロウの家族は一番最初に皆殺しにされてしまうので、家族愛を育む話というより、家族で過ごした時間を懐かしむ(表現が難しいが、思いを寄せる、でも)と言った方が正しい。

そして、家族を回想するシーン(妄想も含め)がこれでもかと出て来る。

死に別れるにしても、自立して親元を離れるにしても、過去のことを思う、今もいてくれたらとどうにもならないことを願う、それを家族愛なのだと言われると、いやいやそうではないでしょうと思ってしまう。

家族団欒の回想シーンを出しては、これで感動してください、泣いてくださいと押し付けられているようで、逆に構えてしまい、冷めてしまう。

2つ目は、鬼を退治するということ

人を喰らって生きているという点で、鬼は最強のプレデター、生態系の頂点にある存在だ。

人が人を作ったのではないのと同様、鬼も鬼が作ったわけではないのであれば、現に存在している時点で、その存在には意味があるのではないか。

ライオンが鹿を喰らうからと言って、鹿が一致団結して、ライオンを倒して絶滅させたら、美談になるだろうか。

共存、共生、住み分け、みたいなものを考えるべきかもしれないし、鹿がライオンを全滅させるのが正しいのかというような話は、コロナにも通ずるところがあるように思う。

鬼を殺せー!と、みんなで盛り上がれるのは、実際には鬼なんていない現実世界の価値観を、漫画の設定する鬼のいる世界へそのまま当て嵌めていることを意識していないからかもしれない。

直近の例で、ワンダーウーマンのようなストーリーが共感を呼ぶのは、最高にも最悪にもなりうる、という2面性をもった人間が、いい人間であろうよ、と葛藤し、争うところではないか。

悪でしかない、という存在は、なかなか現実世界ではあり得ない話で、そういった物語では、悪を倒して行く過程は盛り上がったとしても、最後、爽快感で締めくくることが難しくなる。

そして3つ目は、戦闘シーンの描写にリアリティがなさ過ぎること

1の型、2の型、水の呼吸、などというのだが、具体的に何がどうで、どのように違うというのも全く分からないし、水や光がゴーゴーいう中、隙の糸という、見てる方からはどういう隙なのかまったく分からないものを頼りに決着を付けるという感じで、子供っぽい印象だ。

ワンダーウーマンの中の格闘シーンのような生々しい応酬は手に汗握るものがあるが、訳の分からない中とにかく決着が付くという鬼滅の戦闘シーンには、まったくカタルシスが感じられない。

以上3点が、鬼滅の刃全体に感じる不満な点だが、映画についてはさらに、物語の中心となる鬼をみんなでめでたく退治したのに、ラストで全く脈絡なく現れた鬼に煉獄さんを殺させるという、乱暴な作り。

メインの部分では今一つ盛り上がり切らないので、強引にお涙頂戴シーンを付け加えるという雑な構成では、素直に入り込めない。

とにかく、ここで感動して下さい、泣いてくださいというのが、押し付けがましくもあからさま過ぎて、冷めてしまうようだ。









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