「推しの日」に推し(という言葉)について思う
11月04日で「いい推し」の日だそうで。
実はわたくしこの「推し」という言葉があまり得意ではなくて……
もちろんすごく便利な言葉だなと思って眺めてはいるし、広く使ってる人たちに冷水をぶっかける気もなければ、まして批判するものでもなくて、ほんとシンプルに「自分は使いたくないな」と思ってるだけなんですけど、ちょこっとその辺の話を。
といっても、そんなに大層な話ではなくて、「言葉は意味を狭くするから」「言葉は言葉で現せないものを現せないから」ということでしかないんですけどね。
「推し」っていつ頃から使われるようになったのかな。よくわからないけれど、ネット発祥の新しい言葉ですよね。みんなが空気を読みながら、なんとなくわかったような気になって使ってる言葉。
でも僕はそのなんとなくがつかめているのかどうかわからない、というか、つかみうる何かがネット空間からぼや〜っと広がっているこの言葉にあるのかどうかもよくわからない。
一方で、自分が好きなものに対して、たとえばCROWN POPや藤田愛理さんに対して、熱い心情があるのはよくわかる。それがどんな想いなのかを言葉にはできないけれど、他の何物にも感じ得ないような熱かったり、温かかったり、柔らかかったり、強かったりする想いが胸の中にある。
その想いが、人それぞれのなんとなくに基づいた「推し」っていう言葉で狭められてしまうのが、イヤだなって思うんです。
多分、去年あたりから「推し」という言葉がネットの世界から外側へ波及して、マスメディアなんかでも使われるようになって、彼らはあいまいな言葉を避けたがるので、ますます言葉の意味が狭められていってしまう。
「推し活」が流行語になればなるほど、どんどんその意味は狭い方へ、狭い方へと押し込められてしまいます。
なので、僕が抱える想いをすこし乱暴でキャッチーな言い方にすれば、
「俺の情動を『推し』なんていう陳腐な言葉で規定するな」
っていう感じ。
詩人の谷川俊太郎は、歌人俵万智との対談で「言葉で言えないような存在に対して、言葉はとても無力だし」と言葉の限界、詩に対する疑いを述べた後、詩(ポエム)と詩情(ポエジー)の違いについて、俵万智からの
という問いに「うん。そうそう。」とうなずき、
と話します。
情動、情緒があって、それを言葉で現すのではなくて、言葉で現しきれない外側にも人々の感情はにじみ出ていて、それを感じ取ろうとあがく(けれど感じきれない)ことが文化・芸術の営みであろうと思うのです。なのでインスタントに生じてきた言葉は便利かもしれないけれど、それで自分の想いを規定されるのはあまりにも窮屈がすぎるな、と僕は自分の想いと「推し」という言葉に対して感じています。
藤田愛理が笑えばうれしいし、もっと笑っていてもらいたいなと思う。
藤田愛理が歌えば心地よくて、もっとこの歌声を聞いていたいなと思う。
藤田愛理が涙を流せば、もっとサポートできればなと思うし、
藤田愛理が喜べば、もっともっと素敵な時間に包まれると良いなと思う。
それはクラポの他のメンバーに対しても同様で
りなてぃーもいぶちゃんも、さほるんも、みぃあちゃんも、みんな素敵な時間に包まれて、最高の幸福を味わっていってもらいたいし、その笑顔や充実した想いを、歌やパフォーマンス、トーク、そして対面のイベント、配信など、いろいろな機会で共有していければ幸せだなと思うわけです。
そして僕は、この想いを言葉で現すことができないので、機会があればこうして長文を書いたり、イベント会場へ出かけたり、ライブに行ったりして、時間や空間、熱量、そこに漂う想いや情緒をともにしています。
しつこく言い訳じみてしまうけれど、だからと言って、決して人が「推し」という言葉を使うのを否定しているわけではないんですよ。それは便利だよねと思うし、みんな楽しそうで良いねと思うんです。
たとえば自分はカップラーメンを食べないけれど、人が食べるのを見るのは別に平気でむしろ喜んで見てる、めんどくさいラーメンマニアみたいな感じ……かな??
なんかめんどくさいことを書いてしまったけど、これからも言葉の限界を感じながら、もっともっと想いに対して自由でのびのびしていたいなと、そう思います(なので「沼」って言葉も……ですね)。
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