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命の避難訓練「もしも、休み時間に地震が発生したら?」

これまで、避難訓練のマニュアル的な困難さや、避難行動の困難について、海外の文献等を取り上げて論考してきた。

ここから、ぼくがかつて小学校教員だった時に実践した、避難訓練に関連する安全教育の実践について紹介しようと思う。

火災、地震、水難などあるが、今回は「地震編」

「もしも、休み時間に地震が発生したら?」

この実践は、全校で一斉に、休み時間に地震の避難訓練を行うというものだったが、ぼくはひとつの教材開発として、休み時間に行う避難訓練の事前・事後の授業プログラムを開発して実践した。
そこでは、子どもたちの授業での実態から、避難訓練において大変重要な要素が見えてきた。

まず事前の取り組みだが、児童に、“休み時間はいつも、だれとどこにいるのか”という問いかけを行った。
教室、運動場の鉄棒付近、遊具、図書館など、様々な過ごし場所が出た。
そして、各自その場所に行き、もしもそこで、休み時間に地震が起きたら、どこに身を隠すかを考え、調べてくるようにと各々の場所へと行かせた。
そして、考えてきたことを黄色の付箋に記入させ、白い模造紙の大きな校内マップの中に描いた、自分の遊び場所にその付箋を貼らせた。

避難訓練当日がやってきた。
ぼくの学級の児童にとっては、単なる休み時間の避難訓練というわけではなく、“検証”の意味を持つ避難訓練だった。
子どもたちには、避難訓練で地震発生の合図があったら、前回の授業で考えた場所、方法で身を隠し、「どうだったか」を肌で感じて帰ってくるように言っていた。

訓練が行われる休み時間の間、ぼくは運動場にいて、児童の様子を見ていた。
目をやると、ぼくのクラスの児童でドッジボールをしている子どもたちがいた。
そのグループは、地震が発生したら運動場の真ん中で小さくなって避難する、と書いていた。
(できるのだろうか)
そんなことを思いながら、クラスの子どもたちを探しながら歩いた。

避難訓練開始の時刻が近づいてきた。
そのとき、クラスの3人の男子児童の姿が目に入った。
彼らは、体育館と校舎の間にある少し狭めの芝生広場で、鬼ごっこをして遊んでいた。
学校の体育館は可視性を重視して、一部が特殊な強化ガラスでできており、その広場に面したところもガラス張りになっていた。
したがってその3人組は、

「体育館のガラスが割れたら大変だから、校舎の方に行って身を隠す」

と事前の付箋に記していた。
ぼくは何となく、その3人の児童の様子を見ていようと決めた。

そして避難訓練が始まった。
避難訓練があることはわかっているので、1~6年生の子どもたちは、少し緊張感を漂わせながら、思い思いの場所で遊んでいた。
そしておもむろに、緊急地震速報受信装置の音声が校庭に鳴りわたった。
「地震発生、10秒前、9,8・・・」
子どもたちはその放送を聞いて方々に散り、来る地震に備えようとしていた。
6年生の児童が近くにいる低学年の児童に声をかけ、一緒に避難しようとする姿も見かけ、感心した。

その瞬間に「判断」した子どもたち

ぼくは、自分のクラスの3人組の男子児童の方を見た。
彼らは地震速報の放送を聞き、すぐに予定通りの校舎の方へ駈け込もうとしていた。
するとそのとき、予想もしなかった子どもたちの行動が目の前で繰り広げられた。

3人のうちのKくんが他の2人の児童の腕をつかみ、校舎に行くのを止めようとしたのだ。
ぼくは予想外のKくんの動きに驚きながらも、3人を注視した。
Kくんは、校舎へ行こうとする2人に、何かを叫ぶように訴えていた。
そして3人は顔を見合わせたと思いきや、すぐさま校舎と体育館の真ん中あたりに行き、その場で頭を抱えて身を小さくした。

なぜ彼らは、その場で予定を急に変えたのか。
なぜ校舎に逃げ込まなかったのか、ぼくはその理由に強い関心を持った。

子どもたちは、各々の場所での検証を終え、教室に戻ってきた。
教室に戻るとすぐに、その検証結果を今度は赤い付箋に記入させた。
記入する内容は、決めておいた場所に身を隠してみてどうだったか、という内容である。
様々な内容の記述がみられた。

図書館の大きな机の下に身を隠した児童は、本棚が倒れてくるかもしれないという恐怖を感じたという。
だから、本棚から遠く離れた机に隠れた方がよいと記述した。
まさに、「倒れてこない場所」の実感だ。

また、自然観察園という場所の土管の中に身を隠した児童は、土管の周りの土が崩れて、土管の中から出られなくなるかもしれない自分を想像したのだと記述した。
いずれも、訓練の中で実際に体験したからこそ可能な“想像”だ。
このような実体験的な学習の中で行う“想像”が、身を守る実践的な力となっていく。

そして、ぼくが見ていた3人組の記述を読んだ。
その3人組の付箋の記述は、2人を引き留めたKくんとは別の、引き留められた児童が記述していた。
そこには、このようなことが書かれていた。

“ぼくたちは芝生で鬼ごっこをしていました。
地震が起きたら校舎の方に隠れるつもりでしたが、突然Kくんがぼくたちの腕をつかんで、校舎が崩れるかもしれない!、と言いました。
体育館も割れるかもしれないので、ぼくたちは、校舎と体育館から一番遠い真ん中あたりで、頭を抱えて身を小さくしました。

これが正解かどうかはわからない。
大切なことは、この学習の中で、子どもたちが“自分の身を守るため”に“そのとき、もっとも適切だと思える判断”を、教えられたり強制されたりしたのではなく、“自らした”ということなのだ。

このような判断場面の学習は、小学校段階から積み重ねていくべきだ。
なぜなら、子どもたちは純粋だから。
大人なら、どうせ訓練だから、という態度で臨んでしまうところを、子どもたちは、まるで訓練であることを忘れたかのように一生懸命に取り組む。
これが、小学校段階でこそ、充実した安全教育を行うことの一つの大きな価値だ。

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