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わが経営(ジャック・ウェルチ)

成長

(p48より引用) 上司というものはたいてい、部下に質問するときは、すでに頭の中で答えを出している。上司はただ確認したいだけだ。群れから抜け出すには、与えられた質問の枠を超えて考える必要がある。私はただ質問に答えるだけでなく、上司の意表をつく新鮮な視点を提供したかった。

 確かにそうです。(何らかの事実関係を確認するような場合は別として)何らかのテーマについての考えを質問するときは、ほとんどの場合すでに “自分なりの答え”をもっています。

 最もがっかりする答えは、自分の問い(関心事)とは全く筋違いのチンプンカンプンなものである場合です。が、この場合は「私の質問の仕方が悪かったのだ」と反省します。答えがあまりにも的外れな場合は、往々にして、聞き方が悪いものなのです。

 私の考えているものとほぼ同じの場合は、“可もなく不可もなく”ということ。「そうだね、」でおしまいです。

 私の考えていることは(当然のごとく)踏まえつつ、さらに私の全く及びもつかない新たな観点や極めて高度な専門的切り口からのコメントが返ってくれば感激ものです。

 と、そのように私に対してメンバが接してくる場合は、私も大いに刺激的な意見を期待しているのですが、振り返ってみて私が上司に対してそういうクリエイティブな刺激を与えているかとなると、これはほとほと情けない限りです。

モチベーション

(p54より引用) 部下が過ちを犯したとき、もっとも避けなければならないのは厳しい懲罰だ。このときこそ本人を励まして信頼感が生まれるようにすべきなのだ。上司の仕事は、部下に自信を取り戻させることだ。落ち込んでいる人を「鞭打つ」ことだけは絶対にしてはならない。
 どんな会社においても、自分ひとりで仕事をする(業績を残す)ことはできません。会社という実態はなくそれが人の集合体である以上、人なくして事業は成り立ちません。

 真剣さは必要ですが、一人ひとりの人が最大限の能力が発揮できるように、気持ちよくおおらかに考え動けるような環境が重要です。人は萎縮してしまうと脳みそは固まって柔軟な思考は停止してしまいます。

 過ちがあった場合、一番そのことを身にしみて後悔しているのは失敗した本人そのひと自身です。(過ちに対し本人にその認識も反省のないのであれば論外ですが) 十分に反省しているうえにさらに覆いかぶせた非難は必要ありません。

 過ちを将来の糧に次のアクションに向けてリスタートできるように動機付けることが、結果的には人をより大きく育てることになり、あらゆる面でプラスの効果をもたらすのです。

チャレンジ

(p57より引用) 大企業の利点のひとつは、大きな可能性を持った大きな規模のプロジェクトに取り組めることだ。そのせっかくの利点を失うもっとも簡単な方法は、積極的に夢を描き、夢を追いかけたにもかかわらず失敗してしまった人に対する処分ばかり考えることだ。これではリスクに消極的な文化をますますのさばらせてしまう。

 大企業のデメリットは、新しいことにチャレンジしてもその効果額がかなりのものにならないと実際上の貢献にならないことです。仮に1億円の収益貢献をしたとしても、会社全体の収益規模が1兆円だとその努力は全く見えなくなってしまいます。(少なくとも「金額」という尺度では)

 ただ、他方、それは失敗の場合も言えるわけで1億円の損害が出たとしても、そのダメージは微々たるものということです。

 このような環境の功罪についてはいろいろな考えがあろうと思いますが、少なくとも「個人」では到底経験できないチャレンジができるというのは、非常な魅力ですし大きなやりがいにつながります。
 1円の大切さを知っている人なら、失敗を謙虚に反省し次のアクションの糧にできる人なら、どんどんチャレンジしてもらいたいと思います。

 ウェルチ氏の言葉には、チャレンジの奨励が多く見られます。むしろチャレンジは当然もしくは義務だと感じられるほどです。
 そして、GEのような大企業においては「チャレンジ」しやすいはずだ、失敗しても規模の大きさがカバーしてくれるのだからと話します。
 大企業はとかく保守的なイメージを伴いますが、ウェルチ氏の場合、会社の規模の大きさをチャレンジの活性剤と考えているようです。

(p58より引用) 思い切りバットを振った結果が失敗ならそれは受け入れてもらえることを、社員全体に知らせたかったのだ。
(下p282より引用) われわれは規模というものにどんな意味があるのかよく理解している。規模によりかかって企業がおこなう最悪の行為は、その規模の「管理」に執着することだ。規模そのものは企業活動の自由度を増すこともあれば、その足を引っ張ることもある。われわれは日々、GEの規模が与えてくれるありがたさとは何度もパットが振れることだ、という事実を忘れないようにしている。
(p303より引用) GEでは、これはというアイデアがあれば、それを広める。紹介するのが早すぎる場合もあるほどだ。成果が上がらなかったものもいくつかはある。・・・私はアイデアに飛びつくのが早すぎることもある。だが、うまくいかなければ、捨てるのも早い。

経営

 経営に関するウェルチ氏の言葉にある氏以前のGEの姿は、おそらくほとんどの場合身近な企業(たとえば私が勤めている会社)に当てはまります。

(p175より引用) 今日でさえ、こんな馬鹿げた言い方を耳にすることがある。「利益は出ている。いったい何が問題なんだ」場合によっては大いに問題だ。長期的な競争戦略がなければ、その事業が破綻するのは単なる時間の問題にすぎない。
(p198より引用) 愚か者でも長期か短期かのどちらか一方なら何とかできる。将来を犠牲にしてコストを削減すれば、四半期か1年、あるいは2年間、利益を出せる。将来を夢見て、短期的利益を出さないのはもっと簡単だ。すぐれた経営者は、両者のバランスをとる。

 特に、ユタインターナショナルの例は私の勤めている会社にとって他人事とは言えない問題です。

(p184より引用) ユタインターナショナルは、われわれの1セント単位の地道な努力がむなしく思えるような性格だった。ユタのような景気循環に左右される性格の事業を抱えていては、利益の持続的成長という目標は達成できないだろう。

 しかしながら、ユタインターナショナルが景気循環に左右されながらも継続的に利益を生み出している事業であるとしたらどうでしょう。
 そういう(景気循環を想定さえできれば)ベースロードになりうる事業を切り離してしまうことは正解でしょうか。熾烈な競争環境にさらされている事業のみで構成されるよりも、別の変動要素に依存した事業体も保持しておく方が、事業ポートフォリオ上メリットがあるとも言えます。

 無論、ウェルチ氏の言葉の趣旨はもっとシビアかつアグレッシブです。
 企業を真の競争対応体質に変化させるためには、事業の本来的なあるべき姿である「利益を生み出し続けるたゆまない努力」を打ち消すような要素をすべて除去すべきとの信念の現れでしょう。

 持続的に成長し続けるためには、それぞれの事業単位を「常にチャレンジャとしての位置づけにおいて刺激を与え続ける」ことは有効です。
 その「常にチャレンジャとしての位置づけにする」具体的な方法が「視座」を変えて「視野」を広げるという方法です。視野を広げれば相対的にウェイトは小さくなります。

(p311より引用) 大佐の一人が、ナンバーワン・ナンバーツー戦略がビジネスチャンスをつぶしているかもしれないと指摘した。GEには頭のいいリーダーがたくさんいるため、ナンバーワン・ナンバーツーにとどまれるよう、対象となる市場の範囲を狭く設定しているのではないかという考えだった。・・・対象にしている市場でのシェアが10パーセントを超えないように、すべての市場の範囲を考え直す必要がある。そうすれば、それぞれの事業を別の角度から見直す必要性が生じる。そして、それは視野を広げる究極の訓練になると同時に、市場を拡大するための突破口にもなる。私は15年近く、あらゆる市場でナンバーワンかナンバーツーである必要性を説いてきた。ところが、この最も基本的な主張が足枷になっているという。・・・市場の範囲を狭め、高いシェアを確保すればいい気分になれるし、美しい図が描けるが、・・・われわれは既存の戦略にとらわれていた。どれほどすぐれた方針でも、官僚主義に出し抜かれることを証明していた。
(下p270より引用) 市場が成熟しきってしまうことはない。ときには頭がそうなることはある。・・・同じ事業を異なったシェアの観点から見直すことによって、視座が変わる。各事業部門に、対象としている市場の見直しをさせてシェアが10パーセント以上にならないように市場を再定義すれば、それまで成熟した市場に見えていたものがビジネスチャンスにあふれた市場に変わる。駄馬がサラブレッドのように見えてくる。

 経営者の信念なのか、勘なのか、それともGEという会社を冷静に自己分析した結果の必然の選択なのか私にはわかりません。しかし達観です。

(下p23より引用) 単一の文化、単一の価値、単一の通貨を保持していることが、スタイルも単一ということにはならない-どのGEのビジネスにも、それぞれ独自の個性がある。これと同じ理由-文化の大きなへだたり-から、戦略的には適切と思われたシリコンバレーのハイテク企業を買収するチャンスもあえて見送ってきた。90年代後半にシリコンバレーで成長した文化によって、GEを汚染したくなかった。文化と価値観の重要性は計りしれない。

 計画は所詮計画でしかなく実行ではありません。計画はある前提の下に作られるものですし、計画のインプットのひとつである予測はある前提のもとでの傾向線でしかありません。「前提」は必ず変化します。実行は変化への対応であり変化の先取りでなくてはなりません。

(下p266より引用) 事業というものは、もっともらしい計画や予測を立てるから成功するのではない。現実に起こっている変化を絶えず追いかけてそれにすばやく反応するから成功する。だからこそ事業戦略はダイナミックで、かつ先の読みがしっかりしていなければならないのだ。
(下p337より引用) 私がつねに頭に刻みつけてきた信念は、組織内の変化の速度が外部の速度よりも遅くなったとき、そのときは終わりが近い、ということだ。

 ウェルチ氏の経営に係るそのほかの言葉です。

(下p133より引用) 私はかねがね、「グローバルな企業」といったものはないと考えていた。企業がグローバルなのではない。グローバルなのは事業のほうだ。
(下p268より引用) あるチームが現在トップを走っている競合相手の立場をひっくり返せるという提案をする。その裏にはチームが新製品を開発しているあいだ競合相手は寝ているという暗黙の前提がある。世の中、そんなことはありえない。

人材が事業の中心

 ウェルチ氏は企業の根幹は「人」であると繰り返し繰り返し主張しています。施策の成否は戦略の巧拙にあるのではなく「人材」次第と訴えています。
 私が中途半端に紹介するよりも、ストレートに著書の中のウェルチ氏の言葉を抜粋しましょう。

(p210より引用) しかるべきポストにしかるべき人間を投入しなければ、会社を根本的に変えるための原動力は生まれない。私は抵抗勢力を説得して味方にしようなどと考えて余計な時間を無駄にしてはならなかった。最終的に主要なポストにしかるべき人間を投入すると、ゲームを変えるのは早かった。
(p214より引用) 変化はスローガンやスピーチによって起こせるものではない。しかるべき地位にしかるべき人間を配置することによってはじめて起こせる。まず人ありきだ。戦略やその他もろもろは、そのつぎの課題だ。
(下p174より引用) もしイニシアチブを成功させようとするならそれがどんなものであっても、最初から最高の人材を使って取り組まなければならない。
(下p254より引用) 適材適所の人員配置は戦略の構築よりもはるかに重要だ。
(下p337より引用) あらゆる仕事に命を吹き込むのはすぐれた人材であって、すぐれた戦略ではない。

 そしてまた、ポテンシャルのある人材にやりがいのあるプロジェクトを任せることが、事業の成功をもたらしますし、さらには「人財」の成長にもつながるのです。事業と人材との相乗的なプラスのスパイラルというわけです。

(下p282より引用) われわれはこうしたプロジェクトを大きな組織体のなかでの独立した小さな事業体として単位ごとに分解する-そしてそれらに集中的に取り組む-ことによって、数多くの成果をあげてきた。・・・どんな場合でもはっきりしていることがひとつある。事業活動を分解することによって、仕事に対する意識の高い、活力にあふれ、適切な経営資源を与えるにふさわしい人材が生まれてくる、ということだ。

 もうひとつの重要な成功の要因は、任されたチームメンバによる自由闊達なアイデアの沸騰であり攪拌です。

(p285より引用) 「25年間、会社は作業をする私の手に対して給料を払いつづけてきた。そのあいだ会社は私の頭も使えたはずだ-それもタダで」ワークアウトによってわれわれのそれまでの理解を確認できた。すなわち、仕事にもっとも近い社員がその仕事をいちばんよく知っているということだ。社内で達成されたよい仕事のほとんどは、ある事業、あるチーム、あるいは個人に裁量がまかされたことが何らかの要因になっている。・・・ワークアウトは、・・・全員が参加し、全員のアイデアが重視され、リーダーが人を管理するのではなく導く文化になっていた。リーダーはコーチ役に徹する-説教するのではない。それがよい結果に結びつく。

評価

(p204より引用) 経営者にとって人を切るほどつらい決断はない。「人を切るのを楽しむ」人間や、「人を切れない」人間は、会社を経営すべきではない。・・・私の場合は、つぎのような単純な基準を満たさないかぎり行動には移さない。すなわち「自分も同じように扱われたいか。公平で平等か。毎朝、鏡の中の自分を見て、これらの質問にイエスと答えられるか」
経営者は昔からコスト削減の常套手段として「一律」の支出カットや給与の凍結をおこなってきたが、われわれは一度もこうした手段に訴えたことはない。・・・これでは経営しているとも、指導しているともいえない。一律に10%の人員削減や賃金の凍結をおこなえば、最高の人材をきちんと処遇できなくなる。
(下p262より引用) 神のように振る舞って人をランクづけするのが好きな人間は一人もいない。とりわけ部下を下位10パーセントのランクに分類するのは嫌な仕事だ。・・・差をつけることはきわめてむずかしい。それが簡単だと考えている人は組織にいるべきではなく、それができない人もいるべきではない。

 ヒューマンリソースマネジメントにおける信念はウェルチ氏の真骨頂のひとつです。
 まさに今評価の時期なのでこれらのウェルチ氏の言葉は非常に重いものです。ともかく真摯に虚心で向かうのみです。

 ウェルチ氏は評価を単なる評価としてのみではなく、積極的に「企業の成長の源泉」として位置づけています。評価自体が武器のようです。

(p247より引用) 実際GEは出身に関係なくすばらしい人材を見いだし、育成することに熱心だ。私はいろいろなことに熱中する性質だが、社員をGEのコア・コンピタンシー(競争力の源泉)にすることへの情熱に勝るものはない。・・・製品を作るときは、違いをなくそうとする。だが人にかんしては、違いこそがすべてだ。違いを判断するのは簡単ではない。大企業で社員一人ひとりの違いをとらえる方法を見いだすのは至難の業だ。GEでは長年、人事評価に差をつける目的でさまざまな釣鐘型カーブや方形チャートを駆使してきた。業績や潜在能力を高、中、低で評価し、グラフ化する。また、「360度評価」を導入し、同僚や部下の評価も盛り込んだ。これはなかなかよかった。当初の数年で「上にへつらい、下につらく当たる輩」が誰かわかったからだ。仲間内の評価というのは何でもそうだが、この評価システムにしても、時間の経過とともに、「裏をかかれる」可能性がある。たがいに耳あたりのよいこと以外は言わなくなり、全員の評価がよくなる。現在、「360度評価」を使うのは、限られた場合だけだ。
(下p262より引用) 評価基準を固定化すれば現実に合わなくなる。相手にしている市場の状況は変化し、新たな事業が開発され、新しい競争相手が現れる。私はつねにこの質問にどこまでもこだわる。「われわれは自分たちが望んでいる特定の行動に対して正しく評価をし、報酬を与えているだろうか」評価と報酬を結びつけないことによって、求めて「いない」ものを手にすることもよくあるのだ。

 ちなみに私の会社でも360度評価は試行的に行なわれています。が、私は気にしやすいたちなので結果については見ないことにしています。
 その背景には、私が360度評価をする際、被評価者を十分理解したうえでスコアリングしていないという事実があります。正直、「感覚」ではなく自信をもって評価できるほど相手を知らない場合がありますし、評価のための質問も表層的・短絡的なものが非常に多いのです。
 現状のやり方では、効用よりもノイズ(ミスリード)の方が圧倒的に大きいように思います。

姿勢

 ウェルチ氏のオープンな姿勢を表す言葉です。
 前者は普遍的ですが、後者はウェルチ氏ならではかもしれません。

(下p256より引用) 傲慢さと自信との間には明確な一線がある。本物の自信だけが仕事の成功を約束する。自信があるかどうかは、何ごとにもオープンな姿勢を保っているかどうか-変化を積極的に受け入れ、新しいアイデアをその出所にこだわらずに取り入れる-で判定できる。自信にあふれた人たちは自分の考え方に批判や反論が向けられることを恐れない。アイデアを豊かにしてくれるような知的論争に喜んで加わる。・・・自信のある人とは自分を飾らないでいられる人だ-あるがままの自分が気に入っており、そのあるがままの姿をさらけ出すことを恐れない人だ。
(下p276より引用) いつ口を出すべきか、いつ自由にさせるべきかを計るのは純粋に本能的な判断だ。・・・ここで要求されるのは一貫性ではない。ときに行き当たりばったりのいい加減さのおかげで仕事が早く片づくこともある。自分が力を発揮できるチャンスを好きに選ぶことだ。



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