TheBazaarExpress78、黄金の10代の夢を職業にする幸せ~2012年米子での講演録

 はじめまして。神山典士と申します。今日はどうぞよろしくお願いいたします。

 米子は大好きな街で、中学時代の恩師が住んでいるものですから、ちょくちょく訊ねて、大山に登ったり、昨日は植田正治の写真館を見させてもらったり、楽しく過ごしています。

 今日みなさんとお会いできるのは『ピアノはともだち 奇跡のピアニスト辻井伸行の秘密』という本を書かせてもらったご縁だと思います。ぼくは大学を出てからずーっとフリーランスの文章書きをやっていて25、6年になりますが、初めて書いた児童書になります。

 とある親しい編集者が児童局に移ったということで、「ちょっと児童書を書いてみないか」と誘ってくれた事が執筆のきっかけでした。

 とはいえ、伸行君とのお付き合いという事になると、彼が11歳の頃からとなります。別の出版社の編集者が、将来が期待できる盲目の少年ピアニストがいると誘ってくれて、そのお母さんのインタビューから始めさせてもらいました。それがご縁で雑誌や新聞に文章を書くようになったのです。

 取材を重ねるうちに、お母さんのいつ子さんが同年代で、お酒を飲んで皆でわいわいやる事がとても好きな明るい方だったので、意気投合したという感じです。取材が終わっても、「今度こんなコンサートガあるからこない?」とか「今度ここに演奏旅行に行くから一緒にどう?」などと誘ってくれるようになって、結局12、3年間、辻井家とのお付き合いが続く事になりました。

その間、いろいろな事がありましたが、伸行君ががんばってくれて、2009年のヴァン・クライバーン・国際ピアノコンクールの優勝という、素晴らしい結果を出してくれた事はみなさんご存じの通りです。その約10年間の取材の集大成として書いたのが、この本という事になります。ぼくにとっても、取材の一区切りがついた作品として、思い出深い一冊となりました。

今日はみなさんに、市販されていない伸行君のCDを聴いていただこうと思います。伸行君にとっては、才能をひたすら引き出すための幼児期と、世界への歩みを始めた疾風怒濤の10代との区切りとなったCDです。お聴きください。

(ショパン『小犬のワルツ』)

ありがとうございます。この音源は、伸行君が11歳、小学校5年生の時の演奏です。このCDを、ある日いつ子さんがぼくに手渡して「指揮者の佐渡裕さんに渡していただけないかしら」と頼んできました。ちょうどその頃、ぼくは朝日新聞のアエラという雑誌で、佐渡さんの事を取材していたからです。いつ子さんとは、普段は冗談ばかり言い合っている関係でしたが、その時の眼差しは真剣だった。ピアニストにとって、指揮者に演奏を聴いてもらうのはそんなに大切なことなのかと実感した瞬間でした。

そこである日、取材の合間にタクシーの中で佐渡さんにCDを渡したんです。「12歳の子の演奏なんですが、聴いてみていただけませんか?」と。あとから聞くと、佐渡さんにとっては記者やライターから「聴いてみてほしい」という音源は山のように届くのだそうです。だからたいていは「そこそこいいですね」というような感想でお茶にごすのだそうです。ところがこのCDを、パリか東京か、当時の自宅のお風呂に入りながら聴いてみると素晴らしい。お風呂を飛び出さんばかりの勢いで、奥さんに「もっと音量をあげて」と頼んでいたそうです。

この、佐渡裕さんとの出会いが、伸行君にとっては幼少期から世界へ向けての歩みを始める、10代への転換点になったと思います。

それまでの辻井家は、とにかくひたすらいつ子さんが明るい性格で、もうその頃は視覚障害に対する怖さは克服していたと思うのですが、伸行君が障害児であるということよりも、とにかくピアノに向かってひたすら突き進む辻井家であったと思います。

ぼくは一緒に長崎での合宿に行ったり、川上先生とのレッスンを見させてもらったり、ピティナという全国大会の楽屋を取材させてもらったりもしました。この時伸行君は中学生と同じクラスに出場して優勝するのですが、ぼくは初めてクラシックを学ぶ子どもたちの様子を見ることができました。

他の出場者は緊張した様子で、出番が来るまでずーっとメトロノームをコチコチいわせたり楽譜を見たりしている。親はその隣で団扇を扇いだり、肩をマッサージしたり、親子で相当にナーバスになっているのが感じられました。

ところが辻井家だけは少しもそんな素振りをみせない。伸行君は「お母さん、今日のハヤシライスは美味しかったよ」なんていいながら、「終わったら〇〇を食べようね」なんて、普段の会話をしているんです。

とにかく伸行君にとってコンクールは、緊張するというよりも、お客さんの前で演奏する事が嬉しい、お客さんに喜んでほしいという気持ちが強いということがよーく伝わってきました。

コンクールとは自分との闘いであるとよく言われます。いかにミスをしないで練習の成果を発揮して、いかに完璧な演奏をするかを考えるのが普通だと思うのですが、どうも伸行君は発想が違う。いかにお客さんを喜ばせるかに自分の基準をおいている。そこでミスするとかしないとかの迷いは微塵も感じられないんです。

最近の伸行君の演奏を聴かれた方はお分かりだと思いますが、今日のような大きな会場で演奏する場合、大きな音を会場の一番奥まで届ける事は誰にでもできる。ところがピアニッシモの微弱な音を如何に会場の隅々まで届けるか。しかも、跳ね返ってきたその音を自分で聴きながら、如何にその音色をコントロールするか。

その結果としてお客さんをいかに喜ばせるかという事を、11歳の伸行君は、言葉ではいいませんでしたが、自覚していたんだと思います。

ぼくはクラシックの専門家ではないので、他のピアニストのことはあまりわからないのですが、手を保護するために一日中白い手袋をつけているとか、重いものはあんまり持たないとか、体育の球技の授業は出ないとか、レッスンがある日は学校を休むとか、そういう事が10代の頃から当たり前の環境だと聞きます。ところが辻井家はそういうことはなく、とても自由で、伸行君は体育の授業も運動会も張り切って参加するし、水泳も大好き。ある種奔放な少年時代を送ったというのも、いまとなっては特記されるべき事だったかなと思います。

10年間も取材を続けていると、伸行君にとってのぼくはいい遊び仲間です。17歳のときに出場したショパンコンクールの時も、ぼくもワルシャワに行ったので、ホテルのプールで一緒に泳ぎました。伸行君はプールの一番端っこのコースを占領して、延々と4時間以上一人で泳ぐんです。誰かが見ていないといけないので、ぼくも一緒に泳ぎました。東京都内のホテルでも泳いだし、イタリアのトスカナ地方の小さなヴィラのプールでも泳ぎました。

アメリカのコロラド州アスペンの音楽祭に参加したときは、乗馬もしました。日本のように狭いコースをぐるぐる廻る乗馬ではなくて、大自然の中の小道を何時間か歩く乗馬です。伸行君は一人で馬に乗って、とても楽しそうでした。馬も乗る人の気持ちがわかるのでしょうか、ちっとも暴れないし伸行君の指示通りに歩いていく。伸行君は大自然の風に吹かれる事がとても好きなんですね。ぼくはそういうアクティビティのパートナーになったわけです。

伸行君の少年時代から、いつ子さんの子育てのテーマの一つは、「大自然の中に連れて行って、視覚以外の4感を使って自然を満喫させる」というものでした。一緒に夕食をとったあとで外に出ると、突然いつ子さんが叫ぶ事があります。「のぶりん、みてみて、満天の星空よ、綺麗な夜空よ~」

伸行君も空を仰いで、「ほんとだね、感じるね」と、二人で夜空を見上げるシーンにもよくでくわしました。

いつ子さんは、伸行君を産んだ直後は視覚障害児とういことで、自分自身も絶望したし、どう子育てしたらいいかという悩みがあったわけです。ところが生まれて半年後くらいに『フロックスは私の眼』という本を書いた福澤美和さんという、ご自身も視覚障害を持っている方との出会いがあった。そこで彼女から「目が見えないからといって何も恐れる事はありません。普通の子と同じようにいろいろな体験をさせてあげてください」という言葉をもらってから、いつ子さんは障害を怖がらないようになった。本来いつ子さんは明るい性格で、外に出かけるのが大好きな社交的な人なので、伸行君をどんどん連れ出していく。そして大自然の中でいろいろな経験をさせる。美術館に連れて行けば、作品に手を触れさせて感じさせる。伸行君のオリジナル曲に『ロックフェラー天使の翼』という曲がありますが、アメリカのロックフェラーセンターの前に立っている像を触った時の思い出からできた曲なんです。

そのように、伸行君の幼少期は、あたかも彫刻家が素材の中に眠っている「美」をそのまま掘り出すような、親の作為とか意思ではなくて、伸行君の中に眠っている素材を素直に掘り出す期間だったと思います。ピアニストになってほしいとか、音楽家になってほしいというよりも、いつ子さんの明るさ、積極性で、音楽界から見ればむしろ常識外、規格外の幼少期を送ってきたといってもいいと思います。

そういう時期を経て、先ほど述べた佐渡さんとの出会いがあって、10代を迎えた伸行君の前にはいきなり世界への扉がやってきます。この飛び幅たるや、近くで見ていても気持ちのいいくらいの驚きがありました。

僕が佐渡さんに伸行君のCDを渡したのは確か秋です。その年の年末には、佐渡さんは伸行君親子を、自分の「第九」のコンサートに招待します。そしてコンサートの終わったあと、自分の楽屋に招いて、伸行君に二曲演奏してもらう。そこで再び才能を確かめた佐渡さんは、伸行君に「近い将来君を必ずパリに呼ぶから」と約束する。そしてわずか二週間後に、辻井家に佐渡さんの事務所から電話がかかってきて、「佐渡が3月のパリのコンセール・ラムルーの定期演奏会に辻井君を招待したいと言っています」と告げる。

まさかそんなに早く誘いがあるなんて誰も思っていなかったわけですが、伸行君は「いきますいきます。ありがとうございます」と即答する。何のためらいもなく世界への挑戦を始めたわけです。

伸行君がパリに向かったのは、中学1年から2年になろうとする春休みでした。ぼくも一緒にパリに行ったのですが、ラムルーの練習場に佐渡さんに手を引かれて伸行君が入っていくと、オーケストラのメンバーは「大丈夫かこんな少年で」とあっけにとられている。ところが伸行君がピアノの前に座ってモーツァルトの20番の交響曲を弾きだすと、オーケストラは付いていくのが精一杯。必死の形相で演奏を始めました。これが伸行君にとって、最初の世界への扉ということになりました。

最もその前には、作曲家の三枝成彰さんが、12歳の時にサントリーホールでリサイタルを企画してくれたり、何度もオーケストラとのコンチェルトを企画してくれたり、いろいろな体験を積ませてくれていました。オーケストラと一緒に演奏するコンチェルトというのは、ピアニストが自分からやりたいというわけにはいかないんですね。オーケストラや指揮者から選ばれないといけない。だから、若いピアニストが一流のオーケストラと共にコンチェルトを演奏するのは至難なんです。

ところが、世界的なピアノコンクールの最後には、必ずコンチェルトの演奏が課されています。そういう意味では、三枝さんが用意してくれたコンチェルトのチャンスも、10代の伸行君には大きな意味があったと思います。

13歳の時のパリの演奏以降、伸行君の勢いは留まるところを知らないというか、よくこんなチャレンジができるなというほどの勢いになっていきます。14歳の時には、一晩でモーツァルトとショパンのコンチェルトを二曲演奏するというコンサートにチャレンジしました。指揮者は金聖響さん。この時にもエピソードがありました。二大コンチェルトに挑戦するということになって、川上先生も自分が演奏するくらい緊張して、「必ず成功させなければならない」と猛練習を始めたんです。コンサートは秋でしたから、夏休みのころは猛練習の佳境だった。

ところが辻井家は、前にも話しましたように、どこか規格外の所があって、コンサートのほんの1,2週間前に盲学校の林間学校があるからそれに参加させたいと言い出したんです。伸行君自身が「楽しみにしていたから絶対に行きたい」と言い出した。川上先生は当然休むと思っていたのですが、伸行君は、「えっ、いっちゃいけないんですか、どうしてですか?」と言い出した。するといつ子さんも「伸行は自然が大好きなんで、行って帰ってくればリフレッシュして頑張ると思うんです」と言い出す。川上先生は「1600人の前で演奏するということは立派なプロなんですから、考え直してください」という。大人の常識、音楽界の常識で考えたら、川上先生のほうが妥当な意見でしょう。ところが、結局伸行君は林間学校に行ってしまうわけです。そして帰って来てから「風が気持ちよかったよ」なんていいながら、猛練習してコンサートを成功させてしまう。

このように、いろいろな大人たちが「これはどうだ、これはどうだ」と大きなテーマを与えてチャレンジさせるわけですが、伸行君といつ子さんは自分たちのルールを曲げないでそれらを軽々とクリアしてしまう。期待以上の成果を残していく。それぞれのチャレンジの過程で、伸行君は期待以上のものを獲得して大きく成長していく。

一般の方にとっては、まだこのころは辻井伸行といっても「ニュースステーション」でみたとか、「盲目の~」という冠詞がついた存在だったと思うのですが、関係者の間では、伸行君がどこまで行くのか楽しみだ、一緒にいるとワクワクするという期待感をもたせてくれる存在になっていたと思います。

ただ、もう一つ、別の側面から伸行君の10代を見ていくと、中学から高校に入るころになると、将来自分の職業はどうするんだ、どうやって生きていくんだろうという悩みや不安が出てきたころだったと思います。

伸行君は幼稚園は普通の所に通い、小中学校は盲学校に行きました。学校を離れてピアノの世界にいるときは、いろいろな大人との付き合いがあったわけですが、学校に戻ると盲学校という狭い世界しかない。すでに佐渡さんと一緒にパリに行ったり、国内の演奏旅行などもたくさんあったのですが、学校に戻るとすごく狭いコミュニティで暮さないといけない。そのコミュニティの中で「ぼくこの前パリで演奏してきたんだよ」と言っても、友だちは誰も理解してくれない。それはそうです。他の視覚障害児たちは、自分の中の才能なんて見いだしていないだろうし、どうやって生きていくのか皆目わからない。そういう環境も与えられていない。だから、友人同志で将来の夢を語り合う雰囲気ではなかったわけです。

さらに家庭に戻ると、いつ子さんは120%伸行君のやりたいようにやらせているわけですが、お父さんの孝さんは少し感じが違います。産婦人科の先生で非常に忙しいし、幼少時代から一緒に遊ぶという事があまりなかった。しかも厳しい人なので、伸行君に対しても「草野球の4番打者だからといって、プロに入れるとは限らないぞ」とか「ピアノの練習ばかりではなくて本も読みなさい。お父さんの少年時代にはこういう本を読んでいたぞ」と、厳しい言葉をかけ続けた。息子の将来を案じる父親としては当然の言葉ではありますが、伸行君はそれに反発して「お父さん、ピアノの事は口ださないでよ」と反抗するようになる。

当時の10代半ばの伸行君の心情を想像してみると、音楽、ピアノに関しては自分のなかでも自信があった。確信もあった。世界へ向けての道が自分にも見えていたはずです。でも、学校という社会に戻るとそれが表現できない。家庭に戻れば孝さんに「お前、将来ピアニストになれなかったらどうするんだ。作業場にいくしかないんだぞ」と言われたりする。それに反抗して「がんばって絶対にピアニストになるよ」とレッスンに励む。そういう10代を送っていたんだと思います。

このころから伸行君は、ピアノのレッスンも一日8時間以上続けたりするようになりました。幼少期にはそれほど長時間練習する子ではなかったのですが、急に練習時間が増えた。その裏では、ぼくにはこの道しかないという悲壮感や覚悟がしっかりと自覚されたんだと思います。そしてコンサートのときには、お客さんをいかに喜ばせるかという事に意識を集中するようになった。そこには、本人しかわからない葛藤があったはずです。

さて、ここで伸行君が19歳の時に発売したデビューアルバムの中から一曲聴いてください。

(ショパン『子守歌』)

彼は17歳でショパンコンクールに出場してから、ずっとショパンを弾きこんでいました。その中で、彼がデビューアルバムの一曲目に選んだのはこの曲でした。

『子守歌』です。ものすごく繊細な音を客席に届けなければならない静かな曲です。こういった繊細な音をホールの隅々まで届けて、しかも反射してきた音を聴きわけながら観客を魅了する。そういう技術を19歳でしっかりと身につけたことが、この演奏でお分かりいただけると思います。このことが、のちの伸行君の大きな成功に繋がったと思います。『子守歌』をトップに選んだこのデビューアルバムは、そういう意味でも10代の10年間をしっかりと生きてきた伸行君の一つの集大成だったと思います。

さて、ここからは、伸行君の話から少し離れて、僕自身の10代の記憶をみなさんに聞いていただこうと思います。会場入り口でお配りした当時の僕が書いた作文があると思います。これを見ていただけますか。

この作文は、中学校2年の二学期のはじめの日、「夏休み報告会」で同級生に報告するために゛その下書きとして14歳の僕が書いた作文です。

(※ここに作文を入れてください)

この作文は、僕が30歳になるころに、実家の自室を整理していたら出てきました。えっ、ぼくは昔こんなことを書いたのかと、自分でもびっくりしました。ところが、40歳を越えた頃に初めて学年全体の同窓会をやった時に、ある女性がやってきて、「神山君が中学二年のときに話したことを覚えている。将来子供ができたら絶対に国際交流にだそうと思っていた。今年上の子が初めて海外に出るんだ」と嬉しそうに言ってきてくれたことがありました。驚きました。自分でも忘れていたことを、覚えてくれていた同級生がいたんですから。

ぼくと同世代の方はご理解いただけると思うんですが、僕がアメリカに渡ったのは14歳ですから1974年です。調べてみると、70年の大阪万博まで、日本人の海外渡航には外貨持ち出し500ドルという制限があった。64年の東京オリンピックまでは、海外に身元引受人がいなかったら渡航できないという制限もあった。庶民にとって海外旅行なんて夢のまた夢だったんです。そういう時代に中学生が一人でアメリカに渡るなんて、誰も信じられなかった。僕が生まれた埼玉県入間市なんて田舎ですから、出発前には親戚中が集まって餞別をくれるし、水杯を交わさんばかりの勢いでした。おじいちゃんおばあちゃんがスーツを買ってくれて、「向こうでは毎週教会に行くらしいから、これを着ていきなさい」なんてネクタイの締め方まで覚えていったんです。ところが行ってみたら、ネブラスカなんて人よりも牛の方が多いど田舎です。教会なんていかないし、スーツなんて一度も着ませんでした。

その3週間のホームステイが、この作文ではとてもスムーズにいったように書いてありますが、事実は全然そうじゃなかったんです。中学校2年生の英語で日常会話が通じるわけがない。言葉がわからないから、とにかく毎朝5時に飛び起きて、牧場に行くお父さんとホストブラザーのトラックの荷台に飛び乗って付いていくのが精一杯。そうしないと一人で家に残ってしまうことになって、お母さんと英語で話さないといけない。これが苦痛で苦痛で、だったら男同志で農場で働いていた方がいいから、必死で早起きする毎日だったんです。

ところが週末になるとある事に気づきました。この作文にあるように、ホテトブラザーや友人たちと遊びに行くわけですか、僕がなけなしのドル札を出して何か買おうとすると、ホストたちはポケットから手帖を出して、そこにスラスラと金額を書いて名前を書いて、ピッと切ってお店のレジに出す。そうするとほしい物が手に入るんです。お金を使わないでいい。

―――あれは何なんだ。魔法の手帖か。

ぼくには不思議でした。なんだかわからなかった。でも、言葉では聞けないんです。聞いてもなんて答えているのかわからない。だから一生懸命そのことを考えながら一緒に遊んでいる。そんな状態でした。

一方で、毎日牧場にいくと、ホストブラザーが一頭の牛を大切に世話しているのを見ていました。餌には特別な物を混ぜたり、ブラッシングしたり、雨が降ったら小屋に入れたりしている。何でこの牛だけ大切にしているんだろう、不思議だなーと思いながら二週間ほど過ごしていたら、3週目になろうとする週末に、今日はお祭があるよと言われて、家族で出かける機会がありました。トラックの荷台にその牛を積んで出かけて行ったのです。

着いた広場には移動式の遊園地とか出店が並んでいて、地域の人たちが大勢集まっていました。そこに、ちょっとした客席がある楕円形のステージのようなものがあって、子どもたちが連れてきた牛を引きながら登場したんです。そしてグルッと一周して、いわゆる品評会をしていたんですね。審査員がいて、確か一番いい賞が紫リボン、次が赤とか黄色とか、リボンをもらっていました。

そこで、紫リボンをもらった子が大喜びしている姿を見て、ぼくにはいくつかの不思議なことが一つに繋がって、やっと納得がいったんです。

つまり、ホストブラザーたちは、まず親から仔牛をもらって自分で一生懸命に育てる。そしてこの品評会に出して紫リボンがもらえると、それが高く売れる。その売ったお金が銀行に貯まっていて、その分だけあの「魔法の手帖」でピッと切るとお金になって使える。お小遣いになっているということに、やっと気付いたんです。3週間かけて。毎日牧場と家を往復しながら。日常生活では、もう笑うしかないような失敗を重ねながら、やっとそのことに気付いた。誰かに教えてもらったり、本で読んだりしたのではなく、自分の身体でそのことがわかっただけに、それが14歳の夏の最大の収穫になりました。

そしてそれがわかった時、作文には「なんだか恥ずかしくなりました」という表記があったと思いますが、本当にそう思いました。だって、この地球上で同じ14歳の子が自分で牛を育てて、それを売って自分のお小遣いにしている。それなのに日本人のぼくらはただ勉強しろ勉強しろと言われるだけで、自分の力で生きるなんてとんでもないわけです。大学を出るまで親のすねかじりで生きていく。そんなことがあっていいのかと、本気で思ったんですね。

だから、この作文を皆の前で披露したあと、僕らの学校では秋に生徒会選挙があるわけですが、ぼくは会長に立候補しました。その時演説で話したのは、僕らは自分たちの力で生徒会則も改めよう、学園祭も自分たちの手でやろう、自分たちでアイディアを出して自分たちの力で生徒会活動を行いますから、先生方は黙って見ていてくださいというような趣旨の話でした。

もちろん仲間たちには大受けです。でも、先生方にしたら生意気もいいところですよね。だから、二年生の学年が教師の言うことを聞かないのは神山が焚きつけているからだ、みたいなことを考える先生がいて、職員室の中ではすごく評判が悪かった。

でも、僕の中では「自立」というテーマが立ってしまって、しかもそれはアメリカで体験してきた世界標準の自立なわけですから、農耕民族の考え方なんか温くてしょうがない。自分の力で生きていくにはどうしたらいいんだろうと、一生懸命に考える少年になっていました。逆に言えば、大人の指示に従った生き方は嫌だったんですね。

いまから思えば、あの日から約40年たったいまも、こうやってフリーランスで文章を書く仕事をしているというのは、どうもこの作文が出発点だったと思います。異文化の中に入っていろいろな体験をして、そこでいろいろな発見をしてそれを文章にしてみなさんに読んでいただく。しかも、自力で生きていく。今の生活はそう言うことの繰り返しなんですが、そのパターンはもうこの作文にあった。だから10代の感覚が今の生活のベースになっている。逆に言うと、今のぼくがあるのは、この10代の大きな体験があったからこそなんだなと思っています。

そういう多感な10代の中学校生活のなかで、ぼくは先生方から睨まれる少年だったのですが、たった一人、ぼくや仲間たちの主張を理解してくれて、ある種心の支えになってくれる先生がいました。

会場入口でもう一枚お配りした手書きの本のリストがあると思います。それがその先生がぼくらが中学校1年か2年の夏に配ってくれた、推薦図書のリストです。

(※ここにリストが入れられたら入れてください)

当時、14歳のぼくらからみると、その先生は立派な大人でした。でも、あとから振り返ってみると、歳は僕らと一回りしか違わなくて、当時25歳か26歳。大学を卒業して2,3年目の先生だったんです。それに気付いたとき、二度びっくりしてしまいました。だって、そんな若い先生にこんな素晴らしい本のリストが書けるなんて、いまの教師から見たら考えられないでしょう。僕自身にしても、もしいま子どもたちに推薦図書を書こうとしても、こんなリストは書けません。少年時代に読んでおくべき素晴らしい本を、若くしてその先生は僕らに提示してくれたんです。

実はこのリストは僕が大切に持っていたわけではなくて、同級生の女の子が先生のことをすごく信頼していて大好きで、いまも自宅のベットルームに額に入れて飾っていたというんです。今日はそれを借りてコピーしてきました。彼女はおそらくこのリストの本を全部読んだんじゃないかなと思います。

ぼくはそんなに従順な生徒ではなかったので、何冊かしか読まなかったと思うんですが、それでも梅棹忠夫さんの『知的生産の技術』、それからファラデーの『ロウソクの科学』は読んだはずです。『知的生産の技術』の中に、京大型カードというのがでてきて、思考をまとめるときにそれを使うやり方が書いてありました。一枚一枚にアイディアなりキーワードを書いて、カードを並べ替えながら考えを整理するというやりかたです。中学生のぼくは新宿あたりでこのカードを買ってきて、見よう見まねで使っていたんですが、そのやり方は、いま僕がノンフィクション作品を書くときのやりかたそのものです。ここに出発点があるといっていい。さすがに今はカードは使っていませんが、そのやり方はいまも使っている。10代の時に学んだ方法論が、すごく大切に僕のなかに残っているんです。

その意味でも、ぼくは10代の記憶のなかで生きているといっていいと思っています。

最後になりますが、今日、この場でみなさんに、あの日のあの先生、この本のリストを書いてくださった荒井文夫先生をご紹介できることをとても嬉しく思います。会場の中にいらっしゃる荒井先生、恐縮ですが立っていただけますか。

ありがとうございます。荒井先生とは昨日も一緒に酒を飲んで、家にも泊まらせていただきました。先生はいま、南部町の図書館の運営委員長をやっていらっしゃるそうです。図書館では、面陳の工夫もされていると仰っていました。いまも本が大好きで、いろいろな書物を読んでいらっしゃるようです。

あの10代の日、荒井先生も職員室の中では孤立無援の先生でしたから、僕らが卒業するのと同時に、教員を辞めて、国に帰られました。ぼくらはご住所は伺っていたんですが、もう二度と会うまいと思っていました。先生とは10代の中学校時代に、とても濃密な時を過ごしてしまった。大人になってから会っても濁るだけで、もう意味がないだろう、と。会わないという選択のほうが、会うという行為よりもむしろ濃いんだと信じていました。

ところが40歳を越えて、さっきいいましたように同窓会を開いてみたら、僕らにも素晴らしい10代があったんだなと思うようになった。そしたら仲間の一人が「荒井先生に会おう」といいだして、バイクを飛ばして米子にやってきたやつがいた。そして「先生はお元気だった、自転車に乗ったり山に登ったり、子どもみたいな生活をしているよ」と報告してくれた。で、そろそろ先生も還暦だという話になって、ちょうどその頃僕らが文化祭の時にギターを掻き鳴らして歌った吉田拓郎さんが静岡県のつま恋でコンサートをやるという話があって、だったら先生をそこにお呼びしよう、皆でそこで会おうという企画になりました。

そこで何十年ぶりにお会いして、お互いの何十年間を一気に語り合って、そこからは堰を切ったように米子通いが始まりました。

先生は市内にある米子山荘というスポーツ店の山岳部に入っていて、毎年北アルプスに仲間たちとマイクロバスでやってきて、山登りをされています。そこにぼくらも混ぜていただいて、ここ6年間くらい毎年山に連れていっていただいています。ぼくにとっては、夏の大きな楽しみの一つです。

そうやってぼくの半世紀を見ていくと、こうやって文章を書く生活ができているのも、こんな本が書けて今日みなさんとお目にかかれたのも、振り返ればあの黄金の10代があったからだとつくづく思います。

伸行君にしても、その才能のスケールはぼくなどとは比べ物になりませんが、やはり10代で佐渡さんと出会ったこと、三枝さんに出会ったこと、そして多くの体験をしながら悩みをぐっと堪えて努力を続けてきたこと、そういう10代があったからこそいまの彼があり、その大いなる未来があるのだと思います。

どうかみなさん、そういう10代の子どもたちに、本を通していろいろな刺激を与えていただけたらと思います。ぼくも微力ではありますが、文章を通して子どもたちとかかわっていけたらなと思っています。

今日は後半は自分の話になって恐縮でしたが、こんなことで講演を終わらせていただこうと思います。ご静聴、どうもありがとうございました。


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