TheBazaarExpress69、伝承する「無敗伝説」~桜井章一と雀鬼会編

 その時、師から高弟へと行われたその「伝承」は、のちにどんな意味を持ってくるのだろうか。1月28日日曜日、町田道場でのこと。雀鬼会選抜リーグ戦決勝戦が始まる約2時間前。雀鬼・桜井章一が目の前の卓でウォーミングアップをしていた四天王の一人、金村尚紀を見ながら周囲の一人に声をかけた。「おい××、金村の代走しておけ。金村、こい」

 金村がやってくると、雀鬼は立ち上がってその耳元で何か囁いた。その間わずか十数秒。やがて金村は一つ頷くと、まだ何か話したそうな雀鬼を振り切るように道場の扉をあけて外に出て行った。

――― 一体会長は金村さんに何を囁いたのだろう。

 近くにはいたものの、その姿を目撃していた私には二人の声は聞こえなかった。何故金村が道場を出て行ったのかもわからなかった。それだけでなく、不覚にもその行為の本当の意味すらも見えていなかったことに後から気付く。実はこの時、雀鬼は耳元で何か囁いただけでなく、金村の左手にそっと「あるもの」を握らせていたのだ。金村は、掌に触れた感触で瞬時にそれが何かとわかったという。その瞬間、託されたものの重さと、「このあとしっかり調整しておけ」と耳元で囁かれた雀鬼の一言に、金村は涙が止まらなくなった。慌てて外に出たのは、勝負の前に頬を伝う涙を誰にも見られたくなかったからだった。

今期の選抜リーグ戦。一回戦が始まる前から金村は、「今期は自分が勝つもの」という言わずもがなの重荷を背負っていた。雀鬼も、初戦の試合前に「今期は金村に期待する」という意味の言葉を吐いた。外馬も、二重丸をつけたのは金村だった。

その期待通り、金村は1回戦から6回戦まで会長評価でオールAを獲得し、最終戦前にトップに立っていた。だが二位の多田との点差は僅かに30ポイント。最終戦は雀鬼会ベテラン二人の一騎討ちの様相だった。

試合前、まだ金村も多田も現れる前の道場で雀鬼は言った。「今日は金村が優勝しないと駄目な日です。でも逆転の流れもある。得体の知れない化け物がいたり、地崩れの可能性もある。一気にはいかないでしょう。麻雀は生物だから」

その言葉の裏には、前夜行われたジュニア戦での古島の惜敗への叱咤が含まれていた。勝つべきものが最後の最後になって自分の闘いをしきれない。相手にあわせてしまって底無し沼に足をとられていく。勝ちきれない。最終戦前までトップだった古島は、あえなく歌田の逆転を許していた。思えば高槻ジュニアの決勝も同じような展開だった。勝つべきものが勝ちきれない。雀鬼には、道場に漂う悪い流れが見えていたのだ。

はたして―――、その言葉通り、試合が始まると金村の不調ぶりは目を覆うばかりだった。小鉄、清川、志村と囲んだ卓で、いつものようにグイグイと周囲を引っ張れない。殺意とも見紛うまでの戦意を剥き出しにする清川に対しても、その勢いを受け止められない。第一試合、マイナス6ポイント。第二試合、プラス5ポイント。二試合を終えた時点で、ポイントは沈んだままだ。

その一方で、村瀬、橋本、花岡と卓を囲む多田は虎視眈々と大きな獲物を狙う風情だった。「今期の俺の理想は10ポイント差での二着」。数日前の高槻からの帰路、多田は後輩たちにはそう呟いていたという。だがその裏で、多田は用意していたのではないか。「やべえ、まくって勝っちゃったよ」という台詞を。その証拠に、多田は第二試合を終えて26ポイント差ながら、最終戦になると俄然勢いを増してきた。9時12分、いつものように安田の気合の挨拶と共に最終戦が始まると、3分後には多田の野太い声が響いた。「ロン6000点です」。その後も同じ声が道場に響く。9時22分「ツモ」、同26分「ツモ」。3局に入って一度だけ村瀬から「ロン」の声がかかるが、最後はやはり太い眉をしかめた多田の声だった。「ロン、5・8です」。一気に50ポイントを積み上げて、この段階で多田は金村を本当に「まくって」24ポイントのリードとなった。金村危うし。四天王までもこのまま逆転の流れに飲まれてしまうのか。試合前の雀鬼の囁きは、だから「無敗伝説」の伝承は、意味をなさなかったのか。はたして―――。

固唾をのんで見守る約50人の雀鬼会のメンバーの耳には、ただ粛々と、最後に残った金村の卓の四人の牌の音が響くのみだった。タンッタンッタンッタンッ。

              ※

生涯無敗の伝説を持つ男―――。

私の中には、その冠を持つ男が3人いる。

一人は遠く明治時代、嘉納治五郎の命を受けて「世界に柔道と日本男児の素晴らしさを広める」旅に出た柔道家・前田光世。1904年(明治37年)に太平洋を渡り、北米からヨーロッパ、そして中南米から南米各地を転戦し、生涯2000試合無敗の伝説を誇っている。

1914年(大正3年)、南米を歩いていた前田は、リオ、サンパウロ、レシフェと東海岸沿いを北上していった。すでに旅は足掛け8年余り。スペインではあまりの強さにコンデ・コマ(高麗伯爵)の異名も得て、Jyu-jitsuという言葉はヨーロッパの新聞にも何度も取り上げられるまでになっていた。だが前田にも望郷の念は捨てがたい。南米大陸を北上してアメリカ合衆国に辿り着いたら、今度こそ母国・日本へ帰国するつもりでもあった。ところがその足がアマゾン河に達しその広大な大地を目にしたときに、まったく別の思いが閃いた。「ここに日本人の理想の大地を切り開こう」。

東北・弘前の貧しい農家の生まれの前田には、雪も極寒の冬もない広大な大地は魅力だった。世界各地を転戦しながら訪ね歩いた日本人移民の地に横行していた人種差別もここにはなさそうだ。前田自身、年齢的にも30代の後半を迎え、柔道の次なる目標を持ちたいころでもあった。

以降前田はアマゾン河口の街ベレンに留まり、州政府と交渉して大地を譲り受け、日本からの移民を呼び寄せて「アマゾン移民の父」「民間大使」の異名をとることになる。イギリス人女性と結婚もして居を構え、この地を終の住処にする覚悟もきめた。同時に消防署の一角に道場「アカデミア・デ・コンデ・コマ」を開き、軍人や警察官相手に柔道や柔術を教え始めた。その中に、3代前にスコットランドからこの地に渡ってきたグレイシー一家の若者カルロスの姿があった。グレイシー家のつくる資料には、「その先代は大使館関係者」と記されているが、私はベレンに残る古い資料で「サーカスのピエロだった」という記録を見つけたことがある。いずれにしてもグレイシー一族は、南米人とはことなる北欧系の賢さと集中力、精神力の血をひいていることは確かだ。

ベレンで前田から遠く東洋の技「柔術」を学んだカルロスは、やがてリオにでて道場を開く。そこでは11歳年下の弟・エリオにも柔術を教え、やがてその柔術はエリオの9人の子どもたちに受け継がれていく。ことにその三男・ヒクソンは、幼少の頃から際立った素質を持っていた。

そもそもエリオは、長じて兄であるカルロスとも袂を分かっている。日々の食事は鶏肉とサラダ、フルーツのみ。酒もタバコも一切受け付けず、好物の日本茶ですらカフェインが入っているという理由で飲まなくなるほどストイックな気質の持ち主は、親族ですら馴染めなかったのだ。16歳の頃にはすでに道場の師範代となっていたグレイシー柔術三代目にあたるヒクソンもまた、日々の食べ物に気をつかい、酒は受け付けず、ひたすら柔術のトレーニングを繰り返した。エリオの精神力を最も色濃く引き継いだのがヒクソンだった。

周知のように、やがてヒクソンは94年に初来日し、ヴァーリ・トゥード(なんでもあり)の格闘技を日本に持ち込んで「黒船来襲」と恐れられる。95年、98年、99年、2000年と連続して来日し、高田延彦、船木政勝らと闘い、見事な勝利をおさめる。400戦無敗伝説として語られるその戦績は、グレイシー一族の中でも傑出した輝きを放っている。

それだけではない。コンデ・コマからカルロスへ、そしてエリオからヒクソンへという流れの中で伝えられたのは単に柔術の技だけではない。世代と民族を越えて、ある種の精神性までも伝承されている事実がある。コンデ・コマの時代から約80年。95年の暮れに私がロサンゼルスにあるヒクソンの自宅を訪ねると、彼は奇しくもこんな言葉をインタビューの最初に語るのだった。

                ※

「ちょっと待ってくれ。それが問題なんだ。その質問に答えることは難しい。その質問にどう答えるかということで、私という人間の考え方が決まってくるから」

その時、私からヒクソンに出された質問は、けっして難しいものではなかった。「あなたは何年の生まれですか」。私にとってそれはインタビューの本質ではなく、ただの確認だった。ところがヒクソンは、それまで優しかった表情を一瞬強張らせて言葉を続けた。

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