見出し画像

猫と私の物語「命婦のおとど」

たち別れいなばの山の峰に生ふる まつとし聞かば今帰り来む(※1、※2)
浅緋(あさあけ)色※3の命婦(みょうぶ)のおとど※4が居らぬようになって三月。猫返しのまじないを今日もした。そして香を焚き時が過ぎるのを待っている。
命婦は我(われ)が幼き頃、帝より賜った猫。浅緋色でもあるので命婦の位を戴き、その位のお陰で宮中往来ができる猫。その様を女房達は良く思っていない。怪しの猫、と影口をたたいている。女房達は知らないが、命婦とは共に育ち思い通わしてきた。命婦は宮中に留まらず、自由に市中に出かけ、我にその様子を説いてくれる。何時もであれば数日で帰ってくるものが帰ってこない。中納言殿が来られようになったから、なのか。
 「のう清、女はただ時の過ぎるを待つがその本態なのか」私はそこに侍る臈長けた女房に聞く。
「その通りでございます。貴方様も齢十三、良き齢でございます。女は殿方を御迎えし殿方の庇護の元で暮らすのが幸せというものでございます」疑問がわく。
「しかし市中の女は男と泣き笑い共に働いておるではないか。我のように屋敷の中で無為に過ごすものは居らぬではないか。我はあのように瑞々しく過ごしたいのだ。」女官は笑う。そして立ち去る。我は一人取り残される。御簾の中、薄暗い空間。
ことり、と音がする。
「命婦」振返る。いない。しかしそこには結び文がある。
「ああ、また文。清、清は居るか」足音も立てず女房が来る。
「はいここに。文でございますね。お詠みしましょう」
筑波嶺の 峰より落つる 男女川 恋ぞ積もりて 淵となりぬる
一度逢っただけの男からの歌。たかが一夜のこと。恋が積もる程、我の事をご存じか。ただ黒髪を垂らし白く化粧をし、御簾の奥に座り、香を焚いているだけの我への空虚な言葉。「都中、姫君のお噂でいっぱいでございますから」命婦殿も噂を聞いているのか。
「お返しの文は私のほうからしておきます。姫君は女房達と殿方の話をしながら囲碁でもなさいまし。きっと気分が晴れます」また男の話か。そんなに男が良いのか。男たちは女達のもとに次々と訪れ仮初(かりそめ)の恋をするのみではないか。そこに本意はあるのか。男の話をするような気分ではない。我はどうあるべきなのか、それが知りたい。民の生活はどうなっているのか、知りたい。もしや、命婦は民と暮らすためにいなくなったのか。
今朝の占いでは吉と出た夜。牛車に乗って中納言殿が御越しになる。
「姫君、中納言である。お逢いしとうございました。顔をお見せくだされ。これは美しい。贈り物を受けっとって下され」またも仮初のやり取り。今夜が二回目。通いが三度あればそれすなわち婚姻。中納言殿の庇護の元にこの屋敷で、御簾の奥で一生生きることになる。中納言殿には本妻が居る。私は中納言殿がいつ来るかいつ来るかと思い続け生きていく。
「では、また」中納言殿がお帰りになる。
「姫君、ようございました、中納言様は姫君をお気に入りにございます」今夜は月が明るい。
「次がめでたく婚姻となります。お休みなさいませ。」
寝付けぬ夜。明るい月のせいか。夢現(ゆめうつつ)。
ことり。
「姫、貴方は私と同じ、ただ心に任するを好む者のはず」
「命婦、何処(いづこ)に」
「私は民と共に。屋敷の如く閉じられた世界にはあらず。位も贅もありませぬが、心おもむくまま生きられる所」
「我はあと一度の逢瀬を経れば、中納言殿と結ばれる。そして殿の庇護のもとに生きる。それが女の習い。あと一度逢瀬を経れば幸いなりと皆が言う」
「私は猫。常に心おもむくまま。姫は私を通じ民の世もご存じのはず。姫の本心は何とす」
「我の本心」
朝が来た。またも御簾の奥で時の過ぎるのを待つ。
ことり。
逢ひ見ての後の心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり※6
今夜も中納言殿は来られる。いよいよ三度目。
「姫君、中納言様は姫の美しさに心奪われてございます。中納言様はいずれ右大臣になられるお方。その庇護の元、この屋敷で常しえに過ごすのでございます」御簾の奥の黒髪と白き化粧が美しいのか。
今朝の占いでは凶と出た今夜。婚姻が相成る。
牛車に乗って中納言殿が御越しになる。
「姫君、中納言である。お逢いしとうござった。どうぞ顔をお見せくだされ。さても美しい。贈り物を受けっとって下され」またも仮初のやり取り。今夜が三回目。
「さあ、儀式です、餅を召し上がれ、祝言でございます」女房が言う。
風が吹き抜ける。今夜は月が陰っている。
「厭わし。命婦の言う通り、我はただ心に任するを好むなり。まことなき庇護の元になぞ耐えられぬ」
ことり。浅緋色の塊が何処ともなく現れ、中納言に向かって飛んでいく。
命婦、会心の一撃。中納言の顔から鮮血が飛ぶ。
「怪しの猫じゃ、げに恐ろしい。帰る」中納言は走り帰る。
「この猫が、中納言様のお顔に傷を。斬り捨てようぞ」女房が言う。
「帝から賜れた命婦様を斬れるのかえ、清。いかに」女房も引き下がる。猫返しのまじないがここで叶うとは。凶、返して吉。
「命婦、かたじけなし。我も命婦のもとに参り瑞々しく心に任し、独りあかし暮らしせんとす」そう、我も命婦と共に民の元へ参り、心のままに生きようではないか。
いざ。
これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関※7 (終)

【脚注】
※1現代語訳:お別れし因幡の国へ行く私ですが、因幡の稲羽山の峰に生えている松のように、私の帰りを待つと聞いたのなら、すぐに戻ってまいりましょう。
※2 惜別の歌であるが、いなくなった人や動物が戻ってくるように願うまじないの歌でもある。
※3 浅緋(あさあけ)色:平安時代には五位の衣装に使用。命婦の色と同等(と本作では設定)。
※4 命婦:五位の女官、おとど:高貴な女の敬称、平安時代の天皇の飼い猫の実在の名前。枕草子に「上にさぶらう御猫」として登場。本作の清は清少納言をイメージ。
※5現代語訳:筑波山の峰より流れる男女川も、やがては大きな川となり淵ができるように、恋しいあなたへの想いも積もり、やがては淵となってしまいます
※6現代語訳:恋しい人とついに逢瀬を遂げてみた後の恋しい気持ちに比べたら、昔の想いなど、無いに等しいほどのものだったのだなあ。
※7現代語訳:これがあの、京から出て行く人も帰る人も、知り合いも知らない他人も、皆ここで別れ、そしてここで出会うと言う有名な逢坂の関なのだなあ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?