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8、奴国って実はすごい国?

❍倭国の中で最初に中国との交易を行った国

今回の考え方では、奴国の中心地は吉野ヶ里遺跡だったと考えています。それでは、奴国はどのような国だったのでしょうか。

奴国に関して、後漢書東夷伝(432年)の中に、次の様な記述があります。

建武中元ニ年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬

「建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と自称する、倭国の極南の界にあり、光武、印綬を以て賜う」

この時、奴国の王が後漢の光武帝より賜ったものが、有名な「漢委奴国王印」と呼ばれるものです。漢委奴国王印は実物が発見されており、これらの記述の信憑性を高めています。

❍北部九州の雄、奴国

北部九州は、中国大陸と最も近い距離にあり、弥生文化が発展しました。一万年以上も続いた縄文文化の中で、初めて一風変わった文化が入ってきた地域です。北部九州以外の地域では、まだ縄文文化が中心だったと思われます。

そのように、他国の文化を取り入れやすい地域の国々の中でも、奴国が初めて海外の国と友好を結び、国王印までもらってきたのです。
この様な国王印をいただけるという事は、当然、奴国が後漢との交易を独占できたと考えられます。海外との交易は莫大な利益をもたらします。

北部九州にある国々は、当然、奴国になびいたはずです。不弥国や狗奴国は、奴国と同盟関係になったのではないでしょうか。

そして、後漢の都または、帯方郡に奴国が使者を送る事が出来たと考えると、その通過地点である狗邪韓国から松盧国までの国々は、その当時、少なくとも奴国との協力関係が、成立していたと考えられます。

また、魏志倭人伝には旁国として、小さな国々の国名まで記載されています。それらの中に「奴」という漢字が含まれる国名が多いです。そのような国々も奴国と同盟関係になったとも考えられます。

そして、それらの北部九州の国々は、奴国に近い事もあり、実際に技術や文物を取り入れる事が出来たはずです。

しかし、南部九州やその他の倭国の国々では、直接技術や文物に触れる機会は少なかったかもしれません。それでも、かなりの衝撃を受けたのではないでしょうか。縄文時代、小型の船による移動は、盛んだったようです。うわさだけは、大きく広がったのではないでしょうか。うわさには尾ひれがつきます。へたに手出しをしようとは考えなかったはずです。

❍そのような奴国の繁栄はいつまで続いたのか

北部九州の中心国となった奴国の繁栄は続きます。しかし、ついにその繁栄を破る国が現れます。女王の都する処、邪馬台国です。

魏志倭人伝に、次のような記述があります。

今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬
正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王

今をもって、汝を親魏倭王と為し、金印紫綬を帯方郡太守に仮に授ける。
正始元年(240年)、帯方郡太守、弓遵は建中校尉、梯儁等を遣わし、詔書、印綬を奉じて倭国を訪れ、魏の皇帝に代わり倭王ヘさずけた。

つまり、正始元年(240年)あたりに魏の皇帝は、邪馬台国の卑弥呼を親魏倭王として認めて、「親魏倭王印」を帯方郡の太守を通じて、彼女の元へ送ったのです。

奴国王が、建武中元二年(57年)に後漢の皇帝から「漢委奴国王印」を授かったのと同じように、今度は邪馬台国の卑弥呼が、魏の皇帝から「親魏倭王印」を授かります。

❍卑弥呼が「親魏倭王印」を授った頃の奴国

これまで見てきたように、魏志倭人伝にも奴国は登場しています。

東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸

これらの記述が、卑弥呼が「親魏倭王印」を授ったまさにその時の事、とは必ずしもいえません。しかし、同じ魏志倭人伝の中で記述されているので、ほぼ同時代だと考えられます。

つまり、奴国はその頃でもいまだ、2万余戸を有する大国なのです。奴国は、恐らく、建武中元二年(57年)の金印授受あたりから発展を始め、正始元年(240年)あたりになっても、大国であり続けているのです。

その間、183年になります。全期間トップとは言えないとしても、少なくとも100年以上は倭国のトップに君臨していたのではないでしょうか。もしそのように考えるのであれば、奴国は有形無形の莫大な財産を、大量に所有していたと考えられます。

このような長期間、権勢を維持できた事を考えると、やはり、金印の威光は強かったのでしょう。当時、海外の情勢について知りうる人物は、ごくごく一部に限られていたと思われます。そのような謎の勢力との対立は控えていたと考えられます。

❍漢委奴国と魏志倭人伝の奴国は違う国?

当然そのようにも考えられます。委奴国は「いど」と読むとか、「いぬ」と読むなどの説があるそうです。素人の私にはわかりません。
いずれにせよ、漢委奴国が「漢の倭の奴国」であるならば、「魏志倭人伝の奴国」と同じ可能性は高いと思います。

かつて、中国の皇帝から金印を授かった国であるならば、倭国と関わりを持とうとしている人は、奴国という名前はまず最初に、知りうる国名ではないでしょうか。もし、同じ発音の国を聞いたら、倭国の人にその国は金印をもらった国なのかまず聞くと思いますし、倭国の人も答えられると思います。

邪馬台国や伊都国が注目されますが、長い歴史的な目でみると、奴国の方が重要だったとも考えられるのです。今回はこのように考えて話を進めていきたいと思います。

❍最後までお読みいただきありがとうございます

今回も、常識的には考えづらい発想になってしまいました。それが今回のテーマなのでお許し下さい。

次回からも、このような見落しがちな発想をしていきたいと思います。興味がわきましたら、次回以降もぜひ読んでいってください。

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