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~山上徹也氏を含めた宗教二世の方達の悲劇と「信教の自由」について想う 子どもが置き去りだった憲法の議論~

 神奈川県横浜市戸塚区の女性ライダー弁護士西村紀子です。
 一人の弁護士として、一人のライダーとして、そして、一人の人間として、日々感じたり観察したりしたことで、皆様のお役に立つと思えることを、つぶやき発信していきます。

 本日のブログは、一人の弁護士として、一人の人間として、
  “山上徹也氏を含めた宗教二世の方達の悲劇と「信教の自由」について想う 子どもが置き去りだった憲法の議論” です。 

 昨日は、山上徹也氏による安倍元首相襲撃殺人事件からちょうど1年でした。
 そこで、この事件を機に考えた法律的なこととして、かねて考えていたことを、つぶやきたいとおもいます。

 ちなみに、前回の記事はこちらです。
   ↓

 実は、山上徹也氏(以下「山上氏」とします)の捜査機関での取り調べが進んで、母親が旧統一教会にのめり込んで、子どものことも考えずに多額の献金を行っていた、という事実を知って、私の頭に過去の司法試験の勉強中の記憶から蘇ってきた法律的な問題は2つありました。

 一つが、前回書いた、1999年の民法の「成年後見制度の改正」問題。

 そして、もう一つあったのが、
     「信教の自由
でした。

 ご存知の方も多いと想いますが、「信教の自由」は憲法上の重要な人権として、憲法第20条で規定されています。
 その「憲法」は、当時も現在も、司法試験科目において、筆頭に掲げられる重要な科目です。
 
 そして、その司法試験の「憲法」の勉強で、司法試験受験生から圧倒的に支持される「バイブル」として当時も(おそらく今も)君臨しているのが、

  『憲法』(芦部信喜著。岩波書店)

です。
 念のため、引用しておきます。
 

 私自身を含めた当時の(おそらく今も)多くの司法試験受験生にとって、この芦部信喜先生(以下「芦部先生」とします)の『憲法』は、シンプルな記述で、必要な内容が網羅的にかつコンパクトにまとまっていて、勉強する際の負担が少なかったこともあり、まさに“バイブル”でした。
   “芦部憲法”
という言葉は、司法試験受験生の共通言語だったのです。
 私自身も、憲法の勉強のために、この芦部先生の『憲法』を、何回も何回も、それこそ呪文のように読んで記憶していたものでした

 さて、この“芦部憲法”で必死で勉強していた、『憲法』という一つの法律の議論の内容ですが、基本的には、素晴らしいものであると感じながらも、時に違和感を感じることもありました。
 それ自体は、人それぞれの感性なのですから当然といえば当然のことでしょうし、それほど記憶にも残っていないのですが、印象に残るほど強く違和感を感じた箇所がありました。
 それが、
    「信教の自由
についての記述でした。
 もっとも、違和感を感じて印象に残ったといっても、弁護士になった後は、特に信教の自由に関連する事件を扱うこともないまま20年が過ぎましたから、特に考えることはありませんでしたが、山上氏による事件が発生して、その違和感が記憶の底から蘇ってきたのです。
 私は、慌てて、司法試験勉強の時に使用していた『憲法』をひっぱりだして、当時違和感を感じた記述の存在と内容を確認しました。

 それは、「信教の自由」の内容に関する、以下の記述でした。

 「……③両親が子どもに自己の好む宗教を教育し自己の好む宗教学校に進学させる自由、および宗教的教育を受けまたは受けない自由(この宗教的教育の自由を宗教的行為の自由の一形態とみる説もある)も、信仰の自由から派生する。」(なお、この記述は、版が重ねられた現在の芦部先生の『憲法』にもあることが確認できています)


当時使用していた『憲法』(芦部信喜著)の該当記述部分


当時使用していた『憲法』の表紙


 かつて司法試験勉強中にこの部分を読んだとき、正直なところ、
   そんな自由まであるの?
   これって、子どもの気持ちはどうなるのだろう?
   子どもには迷惑なときもあるだろうに。
と、かなり強烈に違和感を感じたものでした。
 
 当時の違和感は、決しておかしいものではなかったのだと、20年以上経過して、山上氏の事件が発生したことによって、実感するに至りました。

 憲法の議論の多くは、どうしても、
    大人の「信教の自由」、さらには、
    大人の「人権」、
    大人の「自由」
の議論が中心になっています。
 例えば、大人の「信教の自由」に基づく行動により子どもが学校行事を欠席したり、特定の科目を拒否したりしたことにより「信教の自由」の侵害が問われる裁判例がいくつかあるのですが、これらの事件では、子どもも親の信仰する宗教の信者であること、或いは親が宗教行事に子どもを当然に連れて行くことが前提となっています。
 ですが、子どもが心からその信仰を理解して受け入れているならば良いのですが、実際のところ、これらの事件の子どもの本当の気持ちはどこにあったのだろうと想わずにはいられないところです。

 そして、現に、山上氏による事件の後、旧統一教会だけでなく、他の宗教でも、宗教二世の方達が、宗教活動を通して親から虐待を受けた、という悲鳴のような声を上げるようになりました。
 
 親が子どもに自分の信ずるところを教えること自体は悪いことではないでしょう。
 ただ、今回のような問題が発生したことで想うのは、教える、つまり、教育も、無制限であってはいけないのではないか、ということです。
 残念ながら、憲法の議論での、芦部先生の『憲法』に記載されていたような「信教の自由」の内容は、親が「信教の自由」を理由に子ども達を自分の宗教活動に動員できる、子どもはそれを当然受け入れるべきとする一つの根拠になってしまっていたようにおもわれてなりません。
 子どもの気持ちが置き去りのまま。。。

 憲法の議論では、「信教の自由」にかかる「宗教」というのは、ある程度しっかりした「宗教」を想定していたのかもしれません。
 ですが、残念ながら、現実の「宗教」は、立派なものばかりではないでしょう。
 また、立派であり、かつ、親にとっては良いものであっても、それが子にとって良いものであるかは、全く別である可能性もあります。

 憲法上の「信教の自由」を考えるに際しては、大人の信教の自由だけでなく、大人の「信教の自由」が保障されるときの子どもの「信教の自由」がどうあるべきか、親の「人権」だけでなく、子どもの「人権」についても真正面から向き合って考えていく必要があるのではないか、と遅ればせながら考えるに至った次第です。

 安倍元首相のご冥福と、山上徹也氏の更生とを、心より祈念いたします。
(終)

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