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この世は赦すも赦さないもなかった

パワハラで適応障害になり、三年前に前職を辞めた。はずだった。
が、また再び同じ系列の場所でお世話になっている。そしてその対象の人とまた改めて関係を築くことになった。
これは去年のはなし。


私の中で鬱はもう治っているという解釈だった。
が、相手を見るとどうも身構えてしまう。
最初はその緊張が相手にも伝わっていたのか、相手もぎこちないようだった。
相手は何事もないようにわたしにふるまってきた。
さて、ここでどうするか。
この世は自分の色眼鏡で見えるという。つまり、「私はこの人につらく当たられた」と思うのであれば、そのように見える。
だが、
それはそれとして全て「過去」として見る。
務めてそのようにする。

すると、数カ月くらい経ったときから、その「色眼鏡」が馴染んできて、過去は過去として思えるようになり、なんなら、どうでもよくなってきた。

憎しみを握りしめるほど、非生産的なものはないからだ。

そう思って、ぱっと離してみた。
相手に対する思い、あのときのきもち、その過去。
不思議と「わたしは被害者である」という気持ちはなくなっていた。
あるとき、その人と談笑できる自分に気が付いた。

それと同時に、電撃を受けたように、胎から湧き上がる想いを感じた。


《 この世は 赦すも赦さないもないのだ 》


そうだ、赦すも赦さないもない。
そしてどちらが正解というわけでもない。

ただ、私は、「過去」の「想い」を手放した。

ただ、それだけで世界が変わった。

何かの本で読んだことがある。

人生を変える節々で、「その役割」を演じてくれる人たちがいる。
そのひとは「その役割」をわたしの目の前で「演じて」くれたのだ。

そう思ったときに、その人がしたこと、そのものは、私の人生にとって必要なものだったのかもしれないと思った。

そんな、印象的な経験だった。

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