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大いなる「1」~時間のこと(1)

ある音楽の冒頭を聴いた瞬間に、その演奏がどのように終焉を迎えるかを見通せることがあるそうだ。私にはそういう感性はないけれど、何故そのようなことが起こるのかは分かる気がする。

音楽は時間の芸術であり、時間は容易に切り分けることのできない流体だから。ある楽曲が奏でられている時間は、膨大な時の湖から「楽曲」という器に汲み取られているけれど、その枠内においてあくまで「ひとまとまりの時間」。冒頭から末尾までひとつであるなら、その全体を俯瞰できる人もいるだろう、と。

以前の投稿では、時間をとらえる意識の「粒度」云々と書いたものの、それは違うなと思い直している。粒度をどれだけ細かくしたところで、時間に込められたすべてを完全にはとらえ切れないと思うので。

想起するのはかつてのデジタルオーディオにまつわる議論。CDが16bitから32bitに進化しても「1と0」の集積である限り必ず何かが捨てられ、オリジナル・マスターテープに収められたすべてを再現することは出来ない、というアナログ派の主張があった。

「時間」も、無数の粒の集合ではなく「大いなる”1”」にすべてが包含されているのではないか。伸び縮みし、濃度を変えながら、たゆたっている大きなひとつの時間の裡に、過去や未来と不可分なありようで現在がある。
(昨今また隆盛している「過去も未来も、世界も存在しない」という思想は、似たような感覚から生まれた別の表現なのかもしれない。ない、とも言えるし、常にすべてがある、とも言える。うーん)

「大いなる”1”」に目を向けると、「プロセスが大事か、結果がすべてか」の二元論がひどく近視眼的なものに思えてくる。これを考え始めたのも、そういう議論に疲れていたからかもしれない。
そのいずれもが、やはり不可分なありようで「大いなる”1”」の裡にあり、かかる経験の全体が人生の時間そのものであると気付く瞬間があって、なにか自由になれた気がしたのだった。


※「時間」テーマはまた書きそうなので、予定は未定ながら(1)とする。
「大いなる”1”」という表現も直感そのままで、もう少し洗練させたい。

※美しい写真は敬愛する音楽仲間、チェロの名手である竜太さんによる(許可を得て拝借)。

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