見出し画像

延命と安楽死と           

「生きていてくれればそれだけで」と願うことも、
「安らかな死」を願うことも、
もとは「祈り」だったはずなのに。

だれかの「祈り」を守るために「権利」が持ち出されて
それはいま、なんだか祈りとは遠く離れたところにある。
昔は祈るだけで手を下すすべはなかった人の死が
技術で少し先送りしたり、早めたりすることができるようになった。
なんとか助けたいとか、苦しめたくないという思いの強さゆえ、
獲得してきた技術はすごいことなんだけど、
それは良いことばかりじゃない。

以前新聞記事で「延命治療は望まない」と言っていた人の話を読んだ。
兼ねてからケアマネさんにその旨伝えていた彼女だが、
胃瘻をつけることになった。
ケアマネさんが確認をしたところ、
「自分は望まないけれど、
それで少しでも長く生きられるのならどうしてもと娘たちが言うの。
私が娘たちに叶えてあげられる、最後のお願いなのね」
と答えたという。

ずっと心の中にあった「祈り」でも、大切な人の願いを叶えるために
それをあきらめたり、我慢したりすることもある。

もはや本人の意思が確認できない状態のなかで、
家族や親しい人たちは
「本人は延命治療はしたくないと言ってた」とか
「もう一度声が聞けるなら、なんでもやってみてほしい」とか
「でも苦しい思いはさせたくない」とか、
「それでも可能性があるなら」とか、
答えの出ない話を延々と繰り広げることになる。

そこで「本人は安楽死を選ぶ権利がある」とか
「延命治療を受ける権利がある」とかいう言葉を
その人に個人的な「祈り」を持たない人が発するというのは
どうなんだろうか。
もちろん良かれと思って口にするのだろうけれど。
考えれば考えるほど
どんどんごちゃごちゃしていくそれぞれの「祈り」が
権利という強い言葉におされて、
本当は答えなど出るはずもないことが
一つの「答え」に導かれてしまうことはないのか。

かといって、脳死による臓器提供を決断した人や家族に
疑問を投げかけるつもりはまったくない。
それぞれが迷いに迷った上で出した答えはきっと正しい。

知り合いの親戚に脳死で臓器提供をした方がいる。
摘出された臓器をのせたドクターヘリが飛び立つ時に
彼の息子さんは「おやじ!頑張ってこい!」と言ったそうだ。

母は外出先でくも膜下出血で倒れ、救急車で運ばれた。
前年にガンを患い、延命治療はしないと決めていたので
お医者さんにはその旨を伝えた。
けれど、10日たっても容態が安定していて、
そこでお医者さんから手術をしてみないかと提案があった。
孫まで含めた家族の中で意見がわかれ、夜中まで話たけれど結論が出せず
結局、朝になったら信頼していた主治医の意見を仰ごうということになった。

そして朝方、母は逝った。
家族の誰にも、何の決断もさせずに。
ひとはある程度、自分の去り際を自分で決められるのではないかと思ってしまう。
とても幸せな、稀有な例なのかもしれないけれど。

「安楽死が合法な国で起こっていること」という本を手にとって、
またしても、メメントモリな日々だ。









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?