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のぞみのない時にどうするのか

3Gも繋がらず、境内は撮影禁止っていう神秘の神社に、さっくりとんぼ帰りで。とことん考えぬいて決めておきたいことがあって。

磐座や木々に神性を見出し、物語を永遠に伝承し守り続ける、そこには「個」を無限に広げてくれる大きな流れがあって、いろんなことを良い意味で諦観できる気がします。

先日、とても葛藤し迷ってるらしい人から「どうしていつも面白い話ばっかりして笑ってられるのか。上手くいってない時はどうするのか」って聞かれたんですが、

上手くいってない時も上手くいってないなりに、できるだけ面白いことを探す・つくるのが、結果として上手くいく逆回転への転換ポイントになると考えています。

よくわからないけど、極というものがあって、素晴らしく美しきよきことを受け取るときは、その眩しさの対極は深い暗さだったりして、受け取ることはつねに両極あるものなんじゃないかと。

その両極の長さ・深度は自分の器、経営者だと会社の器ともいえて、だから結局のところ順調だろうがその逆だろうが、自分が受け取れるものを受け取ってる、必ず両方ある、という諦観があると心の手触りがずいぶん違うような。

あと私、心理学者の故・河合隼雄さんのこのエピソードが大好きで。

「のぞみのない時にどうするのか」と聞かれた時に、あるおっちゃんが「のぞみのない時はひかりです」
新幹線の売り場だったらしい。笑
その言葉に大感激した河合さんが「のぞみの次はひかりだ!」って言ったら、次は「こだまが帰ってきた」と。

なんていうか、渦中はなかなかそう思えない時もあるけど、それくらいちょっと意識的に肩の力を抜いてみる、ゆるい愉快さを半泣きで探してみる、ダジャレを言ってみるのもありなのかなと。

身体が笑って呼吸がゆるんだら、心がなんとなくついてきて、気持ちに少し光がさしたあとは時間が状況を変えてくれることもあるし、

正義感・使命感でいいことやってる人、それが理解されなくて苦しんでる人はなおのこと、まずふんわり諦観の笑い探し、やれると少し楽にならないかな。

いつも真面目で優秀な女子も、ダジャレって絶対言わないよね。

ダジャレはおっちゃんの、自虐笑いは関西人の専売特許みたいになってるけど、なかなか高度でいい効能もってるように思います。

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