【書評】スタンレー・ミルグラム「服従の心理」

もともとその存在は知っていた「アイヒマン実験」の結果及び考察のレポートである。実験のやりとりが詳細になされており、その一つ一つが自分でもやりそうなものがあり、また、ミルグラムの論考もスリリング。さらに、最後の最後、訳者の「蛇足服従実験批判」でもう一回頭をガツンとやられてかき回される。

●実験内容
この実験は、最初、学習における罰の影響を調べるという虚偽の目的の下、様々な職業、年齢の人から被験者を募集する。
実験は「実験者」「被験者」「学習者」に分かれる。被験者は、学習者に対し、単語の結びつきを指示し、学習者に答えさせる。そして、学習者が正しく答えることが出来ない場合、目の前にある機械のスイッチで学習者に電流を与える。電流は40Vから450Vまで30段階まで分かれ、スイッチが30個ついている。間違える回数に応じて、罰となる電流の強さを上げていくよう指示を受ける。この実験では、くじ引きで被験者が決まるが、実際は全て仕組まれており、実験者と学習者はサクラである。実際に電流は流されず、学習者は苦しそうな演技をしているにすぎない。また、本では学習者が実際どんな人がやったか写真ででているのだが、ちょっと小太りで優しそうな顔をした、なんとも人当たりがよさそうな人がチョイスされている。
 この実験のポイントは、ある程度電流が強くなり、実験者がやめてくれと言い始めたときに、やめるべきか否かにある。実験者は、後遺症になるようなことはないし、一切の責任は自分が負うから電流を流し続けろと命令する。果たして、このような状況に置かれたとき、人は実験者の命令に従って電流を流すのか、それとも逆らって止めるのか。つまり、服従と良心の間で立った時、どちらが勝るのかが試される。

●何故アイヒマン実験というのか
 何故「アイヒマン実験」と呼ばれるのか。それは、この実験が実施される約10年前、ハンナ・アーレントが著した「エルサレムのアイヒマン」で、ホロコーストでユダヤ人の大量虐殺を担ったアイヒマンが軍事裁判で自分は指示に従っただけだと抗弁したのを見て、アイヒマンはどこにでもいる野心的な官僚にすぎず、悪とはシステムを無批判に受け入れることだと喝破したことに由来する。当時、体力虐殺をやるような人間は、残虐非道なことをやることにためらいのない大悪人のはずだと考えられていた。それが、ハンナ・アーレントはその辺のどこにでもいる人間と変わりがないと言った。この見解は当時ユダヤ人を中心にすさまじい批判を巻き起こし、この実験当時でも、ハンナ・アーレントの見解は受け入れられていなかった。

●実験結果
 被験者たちは、まえもって「不当な命令が出た場合にどうするか」というアンケートを受けていた。その際、多くの人は、他人を傷づけてまで罰を与えることはない。自分はそんな非道な人間ではないと考えていた。また、著者たちの実験グループも、他人が苦しんでやめてくれといっていれば、たとえ命令されていてもすぐにとめるだろうと考えていた。このような状況では、良心が当然にまさり、服従の出る幕はない。
 ところが、実際に実験をしてみると、むしろほとんどの人は最大電流まで与えることが判明した。そのやりとりが生々しく残っているのだが、多くの被験者は、徐々に電流が強くなり、学習者がやめるように懇願すると、「これはやってはいけないことだ」、「やめるべきだと」実験者に告げ、一貫して抵抗の態度を示す。しかし、実験者が「何が何でもやらないといけない」と言うと、文句をいったり、こんなことをやるべきではないといいながらも、結局は電流を流し続ける。このやりとりは迫真的で臨場感がすごい。あるいは、実験者に対しては従順に言うことを聞くのに、学習者がミスをすると、何の抵抗もなく電流を流すという人もいた。最後に、電流を流すことに抵抗がないかを聞くと、正しく回答できない学習者が悪いのだという人もいた。
 また、「こんなことをして、後遺症でも残ったら責任が持てない」と言ったのに対し、責任は全て実験者が負うと言った瞬間に、電流を流すようになった被験者もいた。人は自分に責任がないと分かったら楽になれる。
 著者は、実験の条件をちょっとずつ変えてみる。イェール大学が主催しているというのと、うさんくさそうな民間団体がやるのでは効果がほとんど変わらなかった。また、実験者が好きな強さを選べと被験者に指示をすると、被験者はほとんどが100V以下の弱い電流しか選択しなかった。また、実験の途中実験者と学習者を交換してみると、被験者は命令にきかなくなった。

●ミルグラムの考察
実験は予想に反して、良心よりも服従が勝った。「価値観は人に影響するあらゆる力の中で、非常に狭い幅しかない動因の一つでしかない」(22頁)
実験を主催する団体が変わっても、結果は変わらなかった。しかし、実験者と学習者を交換するとほとんど被験者は不服従を選んだ。このことから、重要なのは、「権威」のメカニズムではないかと著者は考えた。
何故、人は権威に従うのか。原始時代にさかのぼると、分業が狩猟には効率的であり、各人が役割を適切に遂行するためには権威に従うことが重要であったという。また、逆らえば周りから信用を失うといった束縛条件もある。
また、著者がエージェント理論と呼ぶ問題があり、権威から指示をうけたとき、良心などが外に置かれ、いかに命令を上手く実行するかにのみ関心が集中する。良心に反するのではないかと感じたとき、人は緊張状態に置かれる。その緊張から解放されるために、自分は責任を負えない(責任を負わないでよければやる)と主張したり、間違える学習者が悪いと言うことで電流を流す自分を正当化しようとする。

●「蛇足 服従実験批判」
訳者の巻末の解説では、ミルグラムの生涯や実験のインパクトが端的にまとめられており、これでこの本も終わりかと思ったら、最後に著者独自の見解が述べられている。
 ミルグラムは、そもそも「人は何の理由もなく自分に危害に加えない人には危害を加えない」という良心があるものだということを素朴な前提をおいて、にも関わらず権威から命令があれば、抵抗しつつも服従してしまうと主張した。しかし、著者はそもそもそんな良心があるのかと疑義を呈す。人間にはもともと残虐性が備わっている可能性はないか。歴史を繙けば、戦勝国が敗戦国にした残虐な行為など枚挙に暇がない。
 また、実験の際、旧約聖書を大学で教えているという大学教授がでてきており、非常に速い段階で電流を流さない選択をしている。その際、電流を流す選択は神の教えに反するということを理由に挙げていた。この点で、訳者は、この実験でミルグラムは「服従 対 良心」という構図を置いていたが、実は「権威に対する服従と、別の権威に対する服従」が正しい構図なのではないかと批判する。だから、実験の条件を変えて、例えば実験を除いている観察者を追加して、被験者が観察者の様子を見ることができるようにすれば、実験者への服従対世間の目への服従という対立に変わったのではないかと指摘する。
また、服従に対して良心をたてると、良心を貫徹するには、人生を捨てるまでのすさまじい覚悟が必要になるが、そこまで要求するのは酷ではないかという。実際、雪印で内部告発をした人は当の雪印の社員からも恨まれてしまったという。ハンナ・アーレントの「エルサレムのアイヒマン」の訳者あとがきによると、アーレントは悪の陳腐さについての見解表明後、激しい批判を浴びたというが、ここ10年では、アーレントの支持者は非常に増えている。それは、主張が正しいということもあるが、それ以上に、アーレント自身がまさに自己の良心を貫き通したその生き方にあると指摘されている。
 訳者は、当時何故このような批判がでてこなかったのかまで踏み込み、当時は国家権力=悪、それに対する個人という構図について異論がなかった。現代を生きる我々からすると国家対私人という枠組み自体が不自然に映る。「権威対権威」の構造なのであれば、例えば内部告発、内部通報制度を充実化させるなど、権威そのものが適正になるような仕組みづくりこそ必要なのではないかと批判する。

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