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追悼の辞 井芹昌信さんへ

2024年6月20日、私はFacebookの知人のメッセージで貴兄が亡くなったことを知りました。まずは哀悼の意を表し、本文を始めたいと思います。

日本のITの業界、インターネット。その空間の中にこそ、井芹昌信さんの墓碑銘をここに刻むのがふさわしい、とも思い、ここに本文を書きしるします。

井芹昌信さんは、日本では元アスキー社の書籍部の編集長、アスキーがインプレスと分かれてからは、インプレスで編集長、UNIXマガジン等の当時としては先進的なITの雑誌等も立ち上げ、後に同社社長、というこの業界では誰もが認める経歴を持っており、さらに、電子出版が始まった頃に、電子出版関係でも多くの活躍をした方です。

井芹さんとは同じFacebookを長く使っていながら、友人申請も全くお互いになかったのは、おそらく、お互いに機会を逸した、ということなのだ、と私自身は理解しています。

それは、遡ること2000年に、私が自身のITの当時の会社を閉じざるを得なかったときに、まず最初に、会社を閉じることを市ヶ谷にあったインプレス社に知らせに行ったときのことに遡ります。

そのとき井芹さんは、私が会社を閉じることを決めたときにかなり怒っていました。あきらかに「もう縁を切る」という言い方であったのを今でも覚えています。以来、私の方からは全く連絡をしていませんし、彼からも連絡はありません。今の私の年齢でそのときのことを考えれば、その彼の態度に無理はないとは思いますが、当時の井芹さんの立場を考えれば「人生はいろいろあるので、これからもがんばってください」の一言はあっても良かったのではないか、と今でも思います。こういったご報告に私はかなりしんどい状況であったにしろ、癒しを求めて行ったわけでもなかったので、特にその井芹さんの態度に腹を立てたということはありません。「報告するべき人に報告をした」という、少しの安堵の気持ちはありましたが。

思えば、私のIT関係のキャリアの始まりは、大学を出て最初に入ったオーディオ会社を辞め、当時の「システムハウス」への転職で始まりました。その会社の社員を続けるうち、同じ大学を出た、という友人に、やはり同じ大学を出たアスキーの編集者がいる、ということで、井芹さんを紹介され、私はそれまでの自分のキャリアについてお話しました。大学生のときに文章を書く訓練を教育雑誌の編集部でアルバイトをしているときに得たこと、今はシステムハウスでコンピュータのハードウエアとソフトウエアの開発をしていて、Intel社のC言語でプログラムを書いていること。もともとはオーディオメーカーでアナログ技術も持っていることを話をしました。

当時、私がプログラミングをしたIntel社のC言語は、iRMXというOSで動いていて、その英文のマニュアルには「文法はカーニハンとリッチーの【プログラミング言語C(邦訳は東大の故・石田晴久先生)】という本を読め」と書いてあるようなマニュアルだったので、ほとんど手探りでC言語を習得しました。

その後、井芹さんから連絡があり、「C言語という比較的新しいコンピュータ言語の本を書いてくれないか?」という話をもらったのです。思えば、それが私のこの業界で名前を多くの人に知ってもらうきかけとなった最初の出来事でした。それまでにもC言語の本はいくつか出ていて、私はそれらの本も参考にしつつ、実際にコンピュータを動かし「入門C言語」「実習C言語」「応用C言語」を書きました。この本を書くお話を頂いたとき、私は彼に話をしました。

人間がやることは2つしかない。1つは「やらなければならないこと」、もう1つは「やって楽しそうだと思えること」。この本は「やって楽しそうだと思える」本にしたい、ということ。

それ以来、私は3冊のC言語の本を書きつつ、東京・青山のアスキー社に出入りし、様々な方々と親交を持ちました。そこで出会った方々とは今でも親交があります。この三冊は、累計で100万部を超え、ITの業界での私の本では、始めての書き下ろしのミリオンセラーとなりました。こういう書籍の筆者とは、多くの編集者、多くの印刷に関わる方、デザイナー、販売網を支える方々に支えられているものであり、その支えがあってこその筆者である、という自覚がないと、おそらく長く続けることはできなかったと思いますし、実際、誤植一つでも、その責を受けるのは、名前が出ている著者の私になります。それが本の筆者です。

私にとって井芹さんという方は自分の表の世界でのキャリアを作ってくれたかけがえの無い人であることは、明らかです。ですから、彼が既にこの世にいない、この時に至って、それが遅いことであるとは知りつつ、それでも駆けつけたい気持ちではありますが、一方で、過去の出来事が私を、他の彼との関係を持つ方とは違う締めくくり方をしなければならない、とも思います。そのため、この文を書いています。

加えて、私自身も2020年にコロナで重症化し、ICUで生死の境を彷徨い、なんとか戻ってきたと思ったら、その直後に私もまた彼と同じ「大腸がん」になり、現状はそれでもなんとかなっている、という時期でもあり、私の心中は複雑で、また、体力も以前よりもなくなってきている今この時点では誰にもなんとも申し上げられない状況でもあります。未だに私の心は落ちつきません。

井芹さん、生きているうちに、もう一回でも、お話をしたかったですね。

いま、思うのは、それだけです。

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