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日本人全員が「フーテンの寅さん」になる時代を楽しもう

【もしもあの「寅さん」が目の前にいたら?】
もしも本当に「フーテンの寅さん」が目の前にいたとしても、日本の高度経済成長期のサラリーマンの多くが、彼のことを無視して通り過ぎただろう。そして、そういう人が「フーテンの寅さん」のフィクションを見て泣き笑いする。フィクションだから安心して「全く違う世界に生きる人」を見ていられるのだ。

【日本人全員が「フーテンの寅さん」になる時代】
そうしているうちに、日本人の殆どが現実の「フーテン」になる。日本人の子供が既に多くそうではないか。でなければ、なぜ「こども食堂」などがあるのだ?

【「忘れたもの」を思い起こす「記号」としての「寅さん」】
日本人の多くは1945年の敗戦後の焼け野原から1960年代~1970年代の高度経済成長期に至って、急激な経済成長をして、とりあえず全員がなんとか食って行ける時代になった。そして日本人全員が貧困に苦しんだ時代を忘れた。いや、なかなか忘れられないので「忘れようとした」。しかしなんとか「それ」を心の端っこに追いやったその後、なにか心に引っかかるものがまだ残る。苦い貧困の思い出が、豊かな時代に違和感を感じた。日々流れていく中で、それが、ひょんなことで顔を出す。その瞬間をぐいっとつかんで、日本の庶民サラリーマンに当たり障りのないフィクションとして見せる。それをエンターテイメントとして見せた。それが、若い頃の山田洋次の力だ、と、私は思う。そして「寅さん」を見た人は思うのだ。「あぁ、私はここまで来た」。そして「寅さん」で本当は自分もどこかで知っていた別世界を見て、自分のいるところに安堵し、それがフィクションであることに安堵し、眠りにつき、いつもと変わらぬ朝を迎えるのだ。

【高度経済成長期が終わった】
高度経済成長期が終わり、下降線の時代がやってきた。寅さんというフィクションが、自分や家族や我が子の現実に見え隠れして来たこの時期に、寅さんというフィクションそのものを、さらにCGというフィクションが包み込む。「寅さん(という映画が作られ、見られた)時代」においては「戦後日本の貧困」の時代を思い出させ「今の低成長の現代」は、「寅さんという物語が作られヒットした時代」を思い出させる。2019年に寅さん役の渥美清という俳優がお亡くなりになった後に公開されたCGを駆使して作った映画があるのだが、それは、そんな時代を映す「二重構造」だったのだ。

【「寅さん」が現実になるこの時代に】
横尾忠則という「世界的な表現の天才」がそのアイデアを考え、山田洋次がそれをパクったと横尾忠則氏自身に告発されたが、この横尾忠則氏の「閃き」を感じた山田洋次氏も、二番煎じとは言うものの、そのことがわかった、あるいは、いち早く気づいたという一点においてのみ、その行為が横尾氏に言わせれば「こそ泥」であろうとも、評価して良い。結果はそれでも売れるが、それだけでしかないのではあって、そうなるしかなかったのかどうかは、私もわからない。しかし、そこには、私のような第三者にも「時代の変わり目」が見えたことだけは確かだ。

【時代のパンドラの箱が開く】
高度経済成長期、日本という地域に住む人の「戦後」の記憶は「寅さん」の中に封印した。誰もがその時代を忘れたいま、閉じ込めていた「懐かしくも忌まわしい記憶」の封印が外されようとしている。慌てて新しい封印を印刷して貼っても効果はないし、新しい入れ物で古い入れ物をさらに封印しても、無駄であろう。しかし、そうせざるを得ないのだ。それが人間というものの性だ。

【「寅さん」というフィクションがあった時代を懐かしむ】
くしくも、コロナなどの大きな世界的な問題が起きる前の年・2019年の「CGの寅さん」というのは、実はその「封印が解かれた古い入れ物を包む新しい入れ物」である。「寅さん」を見て懐かしんだ時代では今はない。今は「寅さん」があった時代を懐かしむのだ。

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