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#5 朝露の眺めかた ─ ホログラムとフラクタル

葦江祝里の「言葉や身体感覚と結びついた生理学」マガジン第5回です。
これまで、わたしたちの体を生命有機体として息づかせているエネルギーの要素(天・火・水・地)、ざっくりとではありますが、日本神話『古事記』にみる発声の力学に触れてきました。

科学的な態度には、二つあります。
一つは、ものごとをどこまでも細分化して、構造や仕組みを理解しようとする態度。人体の解剖学や化学反応に注目するのは、こちらの態度です。
もう一つは、あらゆるものの中に共通する性質を見つけ、または類比できることに注目する態度があります。

例えると、朝露の生成原因を空気の湿度と葉の温度に見出し、水の成分や栄養塩類やイオンを調べるのが前者。
朝露の小さな張力に、青空や森や覗き込んでいる自分の姿が映り込むのを眺めるのが後者です。

五坐×五柱のマトリックスや、天火水地の布斗麻邇(ふとまに)原理は、後者の「朝露」にあたります。その小さな原理に、神的世界、地球の地理形成、言語発声、体の成り立ち、色彩システム、音のシステムなど、あらゆるものを映しこむことができます。
もちろん、原理そのものの成分や因素を調べたり分類したりすることもでき、現代科学は量子の世界まで微細な観測ができるようになっています。

物体光に加えて、振幅、波長、位相という3つの光の情報を記録すると、通常の写真技術から、立体再生技術に変換できます。これが3Dホログラムの技術ですが、わたしたちの細胞の一つひとつは、光の情報をもとに、人体に起こっているすべてのことをその膜の張力でキャッチしていると考えられます。

内臓には自律神経系が、皮膚には体性神経系があります。
インターネットにはTCP/IPと呼ばれる通信プロトコルがあり、情報社会の基盤をなしています。
地球には太陽系という軌道周期があります。

光子や電子を介した情報という定義ひとつでも、細胞から宇宙までこれだけの相似があり、その原理は「天=光」です。全体と部分とがスケールにかかわらず相似していることをフラクタル(自己相似)といいます。

光の他に、燃える炎の絶え間ない自己相似、水の流体のなめらかな展開はとても神秘的で、体内にも自然界にもそうした形を見ることができます。地の要素には放射や分岐、水晶の成長などのフォルムのほかに、有機体と結びつくと、増殖や腐食、分解の様子を見ることができます。こうしたトピックの動画を眺めるだけでも、姿形の変化に圧倒されます。

https://www.youtube.com/watch?v=Ig7TwCg4jTI

https://www.youtube.com/watch?v=qmwYBdz_4rU

機械的に体を細分化していくのは、内臓の腑分け、筋肉の分類、関節のメカニズムなどを見るのに適しています。けれど、物理法則以外に関節に働きかける生体力学を見るには限界があります。
部分に全体が含まれ、全体は部分に似ているというホログラムとフラクタルは、ものごとを固定的に切り取るには向いていません。連続した流れや全体性の中での動きを見るのが得意です。

肉体は環境全体の部分であり、部分が全体を反映しているということは、「わたし」がいて「世界」に対峙している、という視点を広げてくれます。「わたし」は「世界」を映し出しているし、「世界」は「わたし」の自己相似です。

常識的には、体や心、服、安心できる部屋の中までが「わたし」のテリトリーで、外が「世界」かもしれません。ホログラムとフラクタルの世界観では、どこに「鏡」を置いたかで、映し出しているものが変化します。
自分の体に触れたことを意識すれば、体は映し出された側 =「世界」になります。鏡の向こう側を対象と呼びます。心を覗き込めば、心は対象になります。
対象は、ただ映し出された世界なので、眠れば消えます。とはいえ、寝ていても肉体はベッドの上にあり、呼吸もしています。呼吸が止まると、肉体はすみやかに肉としての分解が始まります。

ここに、いくつかの意識状態を見いだすことができます。
寝ていても体が消えないということは、寝ていてもそれを見ている観察者が、わたしたちの人体には備わっているといえます。

死亡状態で分解される肉体
睡眠状態で維持される肉体
夢見状態で外界を感覚する肉体
覚醒状態で対象を知覚する肉体

第3回の記事で、人体の形式には4つあると書きました。
物質性(肉体):鉱物的な形姿としての肉体素材
生命性(エーテル体):植物的な形姿としての細胞増殖・代謝系
魂性(アストラル体):動物的な形姿としての神経系
精神性(自我):人間的な形姿としての血液系

意識状態と人体の形式を紐づけていきましょう。

死亡状態で分解される肉体は、個体にすでに観察者は存在せず、自然の摂理に委ねられています。
睡眠状態で維持される肉体には、わたしたちの覚醒意識ではとらえられないエーテル体が働きかけ、細胞増殖・代謝系を担っています。

夢見状態とは、客観的世界ではないけれど、像として何かを見ている、つまり夢を見ている状態です。肉体は夢像も感覚し、夢を見て笑ったり寝汗をかいたりします。感覚する魂=アストラル体が働きかけ、神経活動を担っています。
昼の覚醒状態では、五感から入ってくる情報を自覚的にキャッチし、「わたし」に関連づけて個体活動しています。活発な心身の営みを、血液系が支えています。個体に結びつき、他にすげ替えることのできない観察者が自我です。

自我を観察対象するとき、観察者は誰でしょうか。
他者にも自我があると気づくとき、観察者は誰でしょうか。
自然の摂理に従って肉体を分解しようとするバクテリアの観察者は、誰でしょうか。

「言葉や身体感覚と結びついた生理学」には、意識や感情、環境、バクテリアの働きまで包括しています。
「観察者って、なんとなく私?」「それとも神様?」ではなく、肉体を超えるどんなエネルギー体が働きかけているのか、観察者は誰なのかを、微細にとらえていく必要があります。
自我を観察するときには、自我を超える自己意識(霊我・大我)の観察眼を持ちます。
バクテリアを観察するときは、人体の生死を超えた地球意識、宇宙意識の観察眼を持ちます。

意識を広げて、自我を超えた自己意識、地球意識、宇宙意識、そこにそなわる肉体を超える目を持とうとするとき、困ったことがひとつあります。

それは、そうした意識の広がった世界が、神秘的であると同時に魑魅魍魎の世界でもあるということ。妄言なのか観察眼なのかわからないような言説が山ほどあること。
神秘と魑魅魍魎はおもしろくはあるけれど、生理学ですから、先に挙げた二つの科学的態度から離れてはいけないのです。

二つの態度とは、ものごとをどこまでも細分化して、構造や仕組みを理解しようとする態度と、あらゆるものの中に共通する性質を見つけ、または類比できることに注目する態度でした。

解剖生理学と化学は、世界中の科学者が追いかけていますから、たいそう進んでいます。
ホログラムとフラクタルの科学的態度から、どうやって人間の生理に近づいたらいいのだろうか。
生き生きした体の営みを、治癒や言語表現、身体表現に結びつけていくには、どうしたらいいのだろうか。

「しかけしくみの解剖学」ではなく、三木成夫が説いた「すがたかたちの解剖学」を、自我や肉体を超える目にまで広げていくにはどうしたらいいのだろう?

その最大のヒントとなったのが、桜沢如一の『東洋医学の哲学』と『魔法のメガネ』でした。
桜沢如一はマクロビオティックの創始者として有名ですが、メソッドはどこかで形骸化していくもので、けれどその根底にある世界観が色あせることはなく、はじめて本を読んだとき、頭の中の霧が一気に晴れた思いがしました。

桜沢如一はまず、形而上と形而下で混乱している言説を、バッサリと切り捨てました。形而上と形而下とは、形のあるなしで世界を分ける認識論です。
東洋医学はもともと、人体は自然の一部という世界観ですから、自然のもつ時間の流れ、四季や一日の流れを医学の中に含んでいます。時間は形而上です。形而下は形があるので三次元、二次元、一次元の空間的・図形的世界です。
形而上の言説を、形而下にそのまま当てはめると、混乱します。形而下しか見えない人が、形而上を語っても、もちろん混乱します。

桜沢如一が最初にやったことは、混乱の排除です。
次に、形と重さと色だけに着目し、そこにどんな力が働いているのかを見ようとしました。
そして力の流れだけを抜き出し、それを森羅万象に類比させました。
遠心力、求心力、温度、光の情報、水分、化学成分、地理的分布、味。

生物学的にいって、動物は植物から変形された産物以外なにものでない、と彼は言います。
それはそうで、人間や動物が必要とする栄養素を自ら作り出せるのは、植物だけです。
生理的バランスの究極に酸塩基の均衡があり、生体内で自律性を保つ酸塩基のバランスに働きかけることができるのは食物であるとして、「身土不二」の食に取り組みました。
形而下=「すがたかたち」を見るとき、力の流れは以下の表になります。

FireShot Capture 059 - note生理学 - Google ドキュメント - docs.google.com

この表は第二回の記事「鏡と言葉、色と空間」で概観しました。いよいよこの内実に入っていきたいのです。

桜沢如一は、形姿と力の流れで見ているので、五臓六腑の形をとらえる時、通常の東洋医学とは陰陽が逆になります。陰陽はそもそもが相対的なので、形而上・形而下では反対になるし、類比する関係性によっても変化します。
生体内において心臓は陽、空洞をもつ小腸は陰になります。血液は体液と比べれば陽、骨と比べれば陰です。
混乱の排除と、このどこまでも柔らかい視点が、桜沢如一の魅力だと感じます。ただし玄米食は、今のわたしには適していなかったのでマクロビはやっていません。

こんなに科学が進んでいるのに、世間に流布する健康情報は混乱しています。糖質を制限するのかしないのか、肉食はいいのか悪いのか、どちらの主張にも、もっともらしい根拠が並べられています。

肉体を肉体に限定して見るならば、わたしたちは水分や良質の油やタンパク質をたっぷり摂らなくてはいけません。内臓の中にはより物質的な臓器とより霊的な臓器があり、肉体的に良いとされる食事が悪影響を及ぼす場合もあります。
ここでは生理学の範囲を広げ、肉体、エーテル体、アストラル体、自我と分けているのは、そのためもあります。

次回は、「色と空間」を見るための「魔法のメガネ」を紹介します。
肉体を超える世界・見えない世界をも見ていく感覚を育てながら、体のおもしろさを紐解いていきましょう。
通常の生理学では扱わない言葉や声も、「すがたかたちの生理学」では主役となります。声を出すときの口腔の形を見たらわかるとおり、空間に広がりの質を与えたり、空気をさえぎって形象を与える力が、言葉の音と声にはあります。
古色蒼然とした言霊学より、二つの科学的態度と生理学を通した言葉の世界のほうが、より生き生きしていると感じます。

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