小説「許方教室」

――――――――――――
「どうぞ」という声に返事が返ってきたのは2拍置いてからだった。「失礼します。」部屋に入ってきたのは全身黒い恰好をした冴えない男。「どうぞおかけください。」招き入れたスーツ姿の男は何も考えていないように見せかけているようだった。部屋の中央に置かれた三連のテーブル。その真ん中に2人が向かい合わせに座った。「熊倉といいます。永井さんでよろしいでしょうか?」「はい。よろしくお願いします。」「永井さんは今回ストレスチェックの結果があまりよくなかったということで私どもとの面談を希望されたとのことですが…」熊倉はテーブルに置かれたストレスチェックの結果一覧を開いた。「仕事内容に対する無力感、職場、それからプライベートの人間関係の項目でやや肯定感に欠ける結果が出ていますね。」「そうですよね。こういう回答をすれば会社を辞める口実になるのかな、と。」永井はぼそぼそとしたしゃべり方の惰性のように小さく笑った。「産業医として依頼されている私が言うのもなんですが、そんなことをしなくても辞めようと思えば辞められたでしょう。それにあなたは私との面談を希望した。何か辞めようとおもったきっかけが?」「えと、私が先日インフルエンザにかかりまして、
――――――――――――――――
会社をお休みしている間に私の所属している部署の会議があったんです。そこで直属の上司が「あいつは本来の業務以外の部分ばかりはりきってるのが分かった」と笑っていたって聞いて。余業といいますか、普段私が自主的にやっていた細々とした雑務でばかり影響が出て、大きく見ればさほど影響力がないじゃないかってことなんだと思います。上に評価されるためにこんな雑務やってるわけじゃないと自負していたんですが、やっぱりそれは嘘だったんですかね。しかも会議では「みんなもインフルエンザに気を付けるように」というお触れはあっても、「永井の業務のフォローがあったらよろしく頼む」の一言もなかったと。

――――――――――――

本業の部分で自信をまったく持つことが出来ていなかったってばれちゃったな。もういられないかなって。」永井は鼻から大きく息を吐いた。「それは罪悪感ですか?それとも上司が信じられない?」「両方、なんですかね。」「目上の人や集団が信じられないと思ったことは過去にありますか?」仕事の範囲を少し超えた質問に永井から短くうめき声が出る。「高校のときにね、似たような感覚があったなあとは思ってたんですよ。

――――――――――――

私の高校はさほど頭はよくないですけど、一応進学校だったんです。模試の成績で優秀だった人は選抜クラスのほうにクラス分けするというようなやり方をしていました。私自身は選抜クラスにいたんですが、親しくしていた友達はどちらかというと選抜クラス以外のほうが多かったんです。2年の夏休みのときに仲間内で花火しようということになって、近所の小学校に忍び込んで花火で遊んでいました。それが小学校の近所の人に見つかって言い合いになっちゃったんですよ。翌日高校に通報があったらしくてみんなで先生に呼ばれました。そこで我々の処分が発表になったんですけど、選抜クラスの人間は校内の清掃と校庭の落ち葉を捨てるための穴掘りを1日だけ、それ以外のクラスは反省文とセットの図書室での強制学習を一か月というものでした。結果が出ていない人間を勉強させるためのいい機会にされたんです。

――――――――――――

それまで親しかった選抜クラス以外の友達とは、それっきり疎遠になっちゃったんですよね。先日その時の友達の結婚式があったって別の同級生から聞かされて。」「目上の先生から駒としか見られていないという体験が過去にあったと。ちなみに友達の結婚式には出たかったですか?」俯きがちに話していた永井の顔が少し天を仰ぐような形になる。「さみしさ、は少しあったのかな。でもそんなに稼ぎもないですしね。出費がなくて済んだのならそれでもいいかなと」「では結婚式に出たいと思う友達は?」永井が今度は少し俯きがちに中空を少し眺める。「出たかったな、と思う人はいました。結婚式という単語で思い出された部分もありますけど。

――――――――――――

私は父子家庭で実家が栃木、父方の祖母が埼玉なのですが、その埼玉の親戚のところに結婚式があって、小学生の頃一度だけ行ったことがあったんです。その時に同じ年頃のはとこ、男の子を紹介されて。結婚式が行われている間、二人で式場を駆けずり回って遊んだんです。私はそれまで本当に内気だったんですが、そのはとこというのがとてもやんちゃで。式場のエレベーターで厨房の入り口にこっそり入ったり、「押すだけじゃどこにもかからないから」と言って公衆電話の緊急ボタンを連打したりするとかめちゃくちゃで。それが自分には衝撃だったけど、「それでもいいんだ」って自分の中で非常に気持ちが楽になりまして。そのたった一回会っただけで彼は「はとこってことは俺たちはほとんど兄弟だ」と言ってくれたんです。翌日の学校で、テストの名前の欄に彼の名字「杉田」を書いたら先生と父からはひどく怒られました。それぐらい、彼を家族と感じたかったんですかね。ただ彼と会ったのは本当にそれっきりでした。その後埼玉に行く機会もなく、私が高校生になった頃彼の訃報を聞きました。親の反対を押し切って学区外の私立に進学した彼は、通学中に交通事故で亡くなったと。私はとてもお葬式に行く気にはなれませんでした。葬式に行った父が家に帰ってきてすぐ「馬鹿な奴だ。おとなしく地元に進学していれば」とつぶやいたことがずっと耳にこびりついています。あの時父に「あいつは絶対後悔するタマじゃない。あいつは生き切ったんだ。」と反論できなかった…

――――――――――――


「だから『結婚式』という単語を聞くと彼が思い浮かんで、『彼の結婚式に出たかったな』と思ってしまうのです。友達、というのとは少し違うかもしれませんが。」熊倉は永井の黒目を少し覗き込んだ。「永井さんのお父さんは厳格な方だったんですね。」「息子の私から見た父は厳格でした。ただ先ほどの話に出た埼玉の結婚式に出たときに、幼少から父と交流のあるいとこ叔父とも会ったんです。いとこ叔父が言うには、父は昔は非常にギャンブルとか遊びがうまくて、よく一緒にパチンコに行って遊んだこともあったと。その後結婚して母が死んだ時を境に、父はギャンブルをきっぱりやめたと。だから君のお父さんは立派な人だよと話してくれました。」熊倉は質問の声のトーンを変えない。「ではしつけとかも厳しかったと?」「殴られたりはそんなにしなかったかなあ。でも幼いころの一番古い記憶があって。父に『自分は太陽の国で生まれて、それからこの家に降ってきたんだ』って総いったんです。そしたら父は私の頬をすぐに叩いて俯いてしまいました。理由もなく人を殴る人ではないのに、あの時はどうしたことか…」言葉が詰まった永井にハッとして「永井さん!それ以上は結構です!」と声を張り上げるが永井の耳のは届かない。

――――――――――――


薄いガラスとこれはチャイルドシートか
熱気で匂いはわからない
太陽は遠い。遠いが光は近い、近い、近い
のどが渇くとはなんだろう。叫びは声になっているのだろうか
聞こえない、聞こえない

――――――――――――

「永井さん!」腕を思いきり熊倉に揺すられた永井の額には汗の玉。永井の黒目が元に戻ったことを確認した熊倉は水とタオルを持ってきた。ペットボトルの水を半分ほど飲んで大きく息をついた永井の腕に沿うように、熊倉の手がなでるように永井の肘のあたりを這う。永井は体がけいれんを起こすようにまた一瞬固くなるのを感じた。「永井さん、今私があなたの肘をやさしく触ったとき、あなたの体は強く腕をつかんだときよりも強く私を拒否しました。これがあなたが信じているものです。大人はもう信じる順番を決められない。でも信じ方を今から自分で決めることはできるんですよ。」熊倉があるべき壁を越えて話す姿の全体をゆっくり見まわした永井は、息を吐き出すように言葉を投げる。「ペンと紙、借りてもいいですか?」熊倉の手帳から切り取られた紙に、永井はゆっくりとペン先を動かし始めた。「就活がうまくいかなかったときに親父が急に、『お前、自分の名前はちゃんと書けるのか?』って聞いてきたんです。失敗してごみ箱に放ったくしゃくしゃの私の履歴書を拾って、その裏に私の名前を大きく書いた。父は自分が書いたものを満足げに眺めて去っていきました。その筆跡を真似して書いた履歴書が、この会社宛の履歴書だったんです。」紙には「永井純治」と書かれていた。「僕は親父よりうまく自分の名前を書けたことがないんですよ。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?