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ユダの手紙 ゆるい解釈(ユダの手紙 1:1)

このnoteでは「ユダの手紙の書き始め」のゆるい解釈を書いていきたいと思います。
なんで「ゆるい」解釈なのか、それは難しい言葉としっかりした研究と聖書の書かれた時代背景に基づいた聖書註解書は既に沢山あると思うんですね。
なので自分で聖書を読んだ時に気楽に一つの解釈を見てみたいな、って思った時に聖書を読む意欲を削がずに参考となればいいなって感じで「ゆるく」書いていきたいと思います。(僕個人の理解や解釈を含むので祈りを持って参考にしていただけたら良いと思います!)

「ユダの手紙」の著者 目的の考察

「ユダの手紙」は新約聖書の26番目の書簡であり、ヨハネの黙示録の一つ前の書簡です。著者は「ヤコブの兄弟ユダ」このヤコブがイエス・キリストの兄弟であること、マタイの福音書 13:55からこのユダはイエス・キリストの兄弟であると考えられる。
ユダがどこ宛に手紙を書いたのかはこの書から読み取るのは難しく、不明と言われることが多いのですが宛先の教会が「間違った教え」つまり異端や偽りに満ちていたことがわかります。なのでこの手紙の目的は「間違った教えに対しての反論」や「神の家族の信仰に対しての励まし」と言えると考えられます。
またこの「ユダの手紙」は「Ⅱ ペテロの手紙」とよく似たテーマについて書いてあると言われています。教会の中に入ってきた間違った教えや偽教師についての記述があること、並行した聖書箇所があることからそのように言われています。


イエス・キリストのしもべで、ヤコブの兄弟ユダから、父なる神にあって愛され、イエス・キリストによって守られている、召された方々へ。
  ユダの手紙 1:1

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

ユダはこの手紙をこの一節を持って書き始めます。
このnoteの最初に記したように「ユダ」はヤコブの兄弟、すなわちイエス・キリストの兄弟でした。ヨハネの福音書 7:5にあるようにイエス様の兄弟は当時イエス様のことを信じていませんでした。
そんなイエス様の兄弟たちはイエス様の十字架によって変えられた人達の一人と言えるでしょう。

  • イエス・キリストのしもべ

ユダは自らを「イエス・キリストのしもべ」と呼びました。
これはパウロ(ローマ 1:1、ピリピ 1:1、テトス 1:1)、
ヤコブ(ヤコブ 1:1)、
ペテロ(Ⅱ ペテロ 1:1)と同じ自己紹介です。
この「しもべ」という言葉はギリシャ語では「奴隷」という意味も持つ言葉です。
ユダを始め、パウロ、ヤコブそしてペテロ四人ともこの言葉を持って自らを「イエス・キリストのしもべ」すなわち「イエス・キリストの奴隷」であると名乗りました。
これは「奴隷」という語をそのまま受け取ると不自由だったり苦痛をイメージさせる語だと思います。でも彼らがこの「奴隷」という言葉を用いたのは「イエス・キリストのしもべ(奴隷)」として生きる上で自由(好き勝手)に生きるのではなく
イエス・キリストの与える召しに従うことで知る自由を主張するためだと考えられます。

主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。
 Ⅱ コリント人への手紙 3:17

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

パウロは主の御霊によって使徒として各地の教会に、そして神様に仕えた人物です。そんな彼が主の御霊がおられるところには自由があると言っています。
彼は自らが「イエス・キリストの奴隷」だと思っていましたがそのことを不自由だと思わず主にあって自由だと感じていたことがわかります。
ユダもパウロと同じように主に召された働きにおいては自由(好き勝手)にできたわけではなかったかもしれません。しかし、心は主の霊に満たされ、パウロと同じ「自由」を受け取っていたことでしょう。
またこの「しもべ(奴隷)」という言葉を用いているところからユダやその他三人の謙遜さも垣間見えていると思います。
「奴隷」は決して誇れるものではないと思いませんか。また「奴隷」は「主人」がいてこそ価値を見出すことのできる存在だと思います。自らを低くし圧倒的な「主人」(神様)の存在を誇るような自己紹介に思えます。

  • ユダから「愛され」、「守られ」、「召された」方々へ

そんな「イエス・キリストのしもべ」ユダはこの手紙を神に愛され、イエス様に守られ、召された方々に向けて書いていることを明確にしています。

・神様に愛されているということ
聖書を通して神様が私たちにどれほどの愛を示してくださっているかわかります。
例えば、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
エペソ人への手紙 2:4

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

この箇所にあるように神様は私たちを憐れんでくださり、また愛してくださっています。

・イエス・キリストによって守られている
ユダはこの手紙を読む人々が「イエス・キリストによって守られてる」と言っています。またペテロはこの「守り」が一時的なものや断続的なものではなく信仰によってずっと続くものであると告白しています。

あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。
Ⅰ ペテロの手紙 1:5 

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会


パウロも(Ⅱ テモテ 1:12)にて神様の守りが持続的なものであると述べています。
このことから「イエス・キリストの守り」は一時的なものではなく「ずっと」続くものであることがわかります。

・神様に召されるということ

私たちをご自身の栄光と栄誉によって召してくださった神を、私たちが知ったことにより、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えました。
Ⅱ ペテロの手紙 1:3

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

神様は私たちをご自身の栄光と栄誉によって「召して」下さるお方です。教会での奉仕や役職は牧師やリーダーから任せられると思います。でもその全ての働きは神様の栄光のためであり神様が牧師やリーダーを通して与える、つまりその役割に「召して」くださっていると言えるのではないでしょうか。
(もちろん聖書における神様に召されるということは教会の中での働きや、自分に与えられている情熱においてだけ、というわけではないと思いますが。)
その「召し」のために与えられているのは「いのち」と「敬虔」、そして「すべてのもの」とあります。

そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
 使徒の働き 2:38

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

神様を信じるものたち、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けるものは「聖霊」を受けるとあります。神様の「召し」に対して忠実にそして従順になるために必要なものは「聖霊」ではないでしょうか。
多くのクリスチャンは御霊の賜物(ガラテヤ 5章)が神の働きを担う上で必要不可欠なものだと信じていると思います。このように神の「召し」には聖霊の働きがあって応えることができます。
神に愛され、イエス様に守られ、神様に召されたその召しに聖霊様の助けを受けながら従う。神、御子、聖霊、三位一体の神様を見ることができるユダの手紙の始まりですね。


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