『いわき時空散走フェスティバル24春』平ツアー
『いわき時空散走フェスティバル24春』最終日は、平ツアーです!
【日時】2024年5月6日(月・祝)13時~16時30分
【集合・解散】いわき駅
【サポーター】北林由布子(きたばやし・ゆうこ)
渡邉瞳子(わたなべ・とうこ)
皆さん待望の平エリア、ついにマップをお披露目することができました!平エリアは、サポーターが二人いるので、ツアーも2チームに分かれて行うことに!北林さんが育った”街”と、渡邉さんが育った”城山”、それぞれの歴史や、暮らし、思い出を語りながら巡っていきます!
実は、マップの半分くらいしか回れてないのですが、ボリューム満点な内容になっております・・・!
ーあみだくじでチーム分け!
平ツアーは、いわき駅北口に集合し、集まった参加者から順にあみだくじを行い、北林さんチームと渡邉さんチームの2チームに分かれました!今回、レポーターの井上は、北林さんチームということでレポート内容は北林さんチーム中心に書かれております・・・!
最初に全員で自己紹介を行った後、渡邉さんチームはまずS-PALいわき内に飾られている『いわき平時空MAP』を見に行きます!その間、北林さんチームは、いわき駅北口のロータリーにて、いわき駅になる前の平駅や、磐城平城について説明しました!
現在の『いわき駅』は、1994年に改称されたもので、その前は『平駅』と呼ばれていました。平駅は、1897年に開設されたのですが、駅ができた当初は閑散としていたそうで、信号燈のランプから垂れる油を舐めにくる城山の狐を追い払うのが駅員さんの仕事だったとか。人よりも狐の方が多かったんじゃないかと言うほどだそうです。今のいわき駅からは、想像できませんね!
また、いわき駅の北側には、かつて『磐城平城』がありました。城と聞くと、立派な天守閣を想像してしまいますが、磐城平城は三階櫓(さんがいやぐら)が聳え立ち、二重三階で、高さが約13メートルで、約6メートル四方(約3.6畳)程度の建物だったそうです。
三階櫓は、本丸南側の崖上にあり、城下町から良く見えたそうですが、現在はもう城はないですし、かつて城がまっすぐ見えていた位置には大きな建物が建てられています。城山は、土地が売り切りされ、住宅地となっており、城跡に住めるというのは全国的にも非常に珍しいそうです。
今まで、再建案や色々な保全運動もあったそうですが、基礎まで作って予算が尽きてしまったりなど、立ち上がっては消えの繰り返しで、平城の復活は夢のまま終わってしまっているとのこと。
今では、いわきで暮らしている私たちでも、平に城があったことことを想像しにくいですが、北林さんが古地図を見せながら、城やお堀、当時のメインストリートの位置などを現在の町に照らし合わせて説明してくださり、平城があった頃の町をイメージすることができました。
北林さん「田町の飲み屋さん、スナックがひしめき合っている通りの、駅側から数えて3本目が暗渠になってるんです。そこの道路だけよく見ると、道の真ん中に側溝みたいなものがあるの。」
暗渠・・・外から見えない(地下に埋められた)水路のこと
また、北林さんは、暗渠を復活させ街中に水場を作ったという海外の記事を見た時に、「ここも暗渠を掘り起こして水場を楽しみながら飲める、飲み屋街にしたら面白そうだな…」とひっそり考えていたそうです!
今は目に映らなくなってしまった町の歴史を知ることで、新しいアイデアや想像が膨らみますね。
そして、『いわき平時空MAP』へ!
平を中心にまちの歴史、文化、物語が鳥観図で描かれており、いわき駅直結の商業施設S-PALいわき内に飾られています。『いわき時空散走』のデザインを担当している藤城光さんが、先行して作っていたのがこの『いわき平時空MAP』です。
最初、北林さんに平のマップ制作の話が入り、その時に藤城さんに声をかけたことが始まりだそうです。北林さんチームには、藤城さんも参加していたので、お二人から話を少しお聞きしました。
藤城さん「地域を上から見た鳥観図にしたのも、思いがあって。この建物(S-PAL)ができたことで向こう側が隠れて、地域性が見えなくなってしまった気がして。であれば、ここが(地域を)繋ぐ場として機能するといいなという思いから、地域全体が見渡せるマップを作ろうと思いました。」
北林さん「地元の人が、おじいちゃんとかが、子供や孫を連れて、何度でも見に行きたくなるような、地元の人も通いたくなるようなマップにしないと、本当に平やいわきの町の人のマップになりませんよって思いを伝えたよね。」
沢山の方が『いわき平時空MAP』を見て、外から来た人も、いわきの人たちも、いわきという地域を面白がって愛着を持ってくれると嬉しいですね。
色んな歴史や伝説話、文化など、目に見えていないものが浮かび上がってくる面白いマップですので、みなさんぜひ見に行ってみてください!
その後、交代して、渡邉さんチームが先に城山へ向かい、少し時間を空けて、北林さんチームも出発!
しかし、最初から急な登り坂です!なので、まだ自転車には乗らず、押していきます。いわき時空散走ツアーでは、自転車初心者の方がほとんどなので、安全第一で危険なところでは無理せず自転車から降ります!平エリアは、坂や細い道が多いので、他のエリアに比べて自転車を押して歩く場面が多かったですね。
ーいざ、城山へ!
坂を登りきると、『磐城平城本丸跡地』の場所に到着。現在、平城のガイダンス施設の建設を予定しており、オープンに向けて工事を進めています。
磐城平城は、鳥居家、内藤家、井上家、安藤家が藩主となりましたが、戊辰戦争後に廃城となりました。道中、石垣が残っている場所があったりなど、ここに城があったのか~と想像できますが、知らない人からすると城の跡地だと気づくのは難しいくらい、普通の住宅地となっています!
そして、その先へ進むと『丹後沢公園』があります。
藩主だった鳥居忠政が、『後沢』という沼を堰き止めて城の内堀にしたと言われており、水を堰き止めるのに何度も失敗し、菅波村の箱崎丹後守義明という90歳越えの老人を人柱にして完成させたという伝説があるんだとか・・・
その堀跡が今は沼池となり、遊歩道も整備され、緑と水に囲まれた公園として残されています。昔は、飲めるくらい綺麗な水が流れていたそうですよ!
磐城女子高校に通っていた北林さんや参加者の話によると、高校生が丹後沢公園で遊んでたイメージはあんまりないとのこと。逆に人が来ないから高校生たちの通学デートスポットになっていたんだとか!
ここ城山には、現在、磐城高等学校と磐城桜が丘高等学校の二つの高等学校があり、かつては磐城高等学校(男子校)と磐城女子高等学校(女子校)で、福島県内でも有数の進学校として有名で、多くの著名人を排出しています。
ー懐かしき青春が蘇る・・・
自分たちの学生時代の記憶が蘇り、
「携帯なかったから、約束の時間過ぎてもひたすら待ってたよね。」
「駅とかにあった黒板に書いたりね。」
などと思い出話で盛り上がっているところ、『磐城桜が丘高校』に到着!
磐城桜が丘高校があった場所には元々、明治37年に『私立磐城女学校』が開校し、戦後に『磐城女子高等学校』となり通称”磐女(ばんじょ)”と呼ばれていました。そして、平成13年に男女共学化し、『磐城桜が丘高等学校』になりました。
磐城女子高等学校が開校した当初、校舎は木造平屋で、制服は袴だったようです!現在の桜が丘高校の制服を見ても、スカートのプリーツデザインから袴の雰囲気が感じられます。この制服のデザインが可愛くて、桜が丘高校に入る子もいるとのこと!
また、『磐女ヤッケ』を着て行う『磐女体操』というものがあるそうで、どんな体操だったのか気になります。
そして、桜が丘高校には、2013年に有形文化財に登録された『桜丘会館』という建物が有名です。『桜丘会館』は皇紀2600年(昭和15年)並びに創立25周年記念事業として計画されたものであり、昭和13年に建てられたそうです。
見た目は、ピンクと白の壁に、丸窓など昭和モダンなデザインで、2階には畳の部屋があるとのこと。
参加者「普通の人は入れなかったです。茶道部が練習してたり。部活の子たちが泊まったり。」
リサーチの際に、サポーターの北林さんや渡邊さんから聞いた話では、学際準備の時には、泊まれたという話もありました!今では、学校に泊まるなんて考えられなくて、とても憧れます!
北林さん「磐女出身の松本さん(いわき時空散走サポーター)から聞いた話だと、松本さんが通っていた当時は、2階が畳になっていてそこで礼節の授業があったらしいです。」
参加者からは、「そういう礼儀作法が学べる授業受けたかった!」「押し付けられるんじゃなくて、カリキュラムとして選べたらいいよね。」などの声も。
他にも、北林さんの磐女時代の写真を見せてもらったり、参加者の皆さんの青春エピソードだったり、やはり、学生時代の思い出トークは盛り上がりました!!
ちなみに、磐女時代の北林さんは、背が高くてショートカット、ファンクラブができるほど女の子たちからモテモテだったそうです!
桜が丘高校の前でずっと喋っていましたが、まだツアーの半分もいっていませんので、再び自転車に乗って次へ向かいますよ~!!
マップには載っていないのですが、六人町というエリアを通って少し休憩した後、飯野八幡宮に行き、お参りしました。
そして、次に『磐城高等学校』に到着!
磐城高等学校は、明治29年(1896年)に福島県尋常中学校の磐城分校として開校し、通称”磐高(いわこう・ばんこう)”です。いわき時空散走のこれまでのマップでも紹介した、経済学者の櫛田民蔵や、海軍大将の高木武雄、詩人の草野心平など、いわきの偉人たちの出身校でもあります。
また、史学部の生徒が、1948年に神谷作古墳群から発掘した『天冠埴輪』が昭和33年に文化庁から重要文化財に指定され、今も保管されています。
その磐城高校のすぐわきには、階段があり、そこを下ると胡麻沢というエリアに出ます。今回は、そっちの方には行かなかったのですが、『さわの湯鉱泉』『栄山荘』と書かれた看板が見えます。
北林さん「聞いた話だと、部活の合宿とかでも使われてたらしいんだけど、それ以外に、平から家が遠い子で、磐高の受験落ちちゃった学生がここで下宿しながら勉強をしていたそうですよ。」
参加者「えー!すごいプレッシャーだなあ。」
また、さわの湯は、東日本大震災の影響以前までは、鉱泉に入れたそうですが、震災の影響で設備が壊れてしまい、今は鉱泉には入れないとのことです。現在は、情緒あふれる建物をそのまま利用し、『ギャラリー笑福』として復活しました。作家さんの作品を展示・販売したり、喫茶スペースでゆっくりすることも可能です。ぜひ皆さん行ってみてください!!
ー磐城平城に向かうメインストリート
また自転車に乗って、城山から好間の方へ抜ける坂道を下っていきます。次のスポットは、『山田屋醸造』さんです!いわきの老舗味噌屋さんで有名です。
まずお店に到着すると、山田屋醸造自家製の甘酒の振る舞いが!!すっきり甘くて、おいしい~身体に沁みわたりました。
そして、山田屋醸造の青木さんに、お店周辺の久保町エリアを少し案内していただきました!
青木さん「元々この道(山田屋醸造前の道)がお城へ行くメインストリートで、この先にある踏切が関所のような場所でした。そこからお城の方へ向かっていく途中にあるのがここになるんですけど、400年くらい前に住み着いたそうで、江戸時代はお米を作っていたので、自前のお米をもとに饅頭屋を始め、城から帰っていく人たちなどが、お腹を満たして帰るような感じでした。そして、明治時代になって味噌・醤油屋を始めました。ちなみに、お隣は、江戸時代は馬をとめておく馬屋だったそうで、ここにある側溝が馬の糞を流す側溝でした。」
参加者「へーー!!そうやって残ってるんですねえ。」
青木さん「あそこには下駄屋さんがありました。下駄の販売だけでなく、行く途中で鼻緒が折れたりした人のを直したりするお店だったそうですね。坂をちょっと上ると、旅籠屋や旅館があって、遠くから来た人はそこで一晩休んでから向かったそうです。」
だんだん、城があった時の平の様子が浮かび上がってきましたね。店前から少し歩いて移動します。
青木さん「ここが、好間江筋です。江戸時代はこの水が、多くの田畑の米を育てる水となって、そして、上から見ると平城の北側を巡るように通っているんですよ。なのでお堀として城を守るという役割もあったようですね。」
北林さんが持ってきていた地図を見ながら、位置を確認すると、参加者の皆さんも「なるほど!」と納得した様子でした!しかしこの江筋、区画ごとにそれぞれ違う業者が工事を進めたようで、全然勾配が取れなくて流れないところもあったんだとか。
青木さん「じゃあ、もう少し歩いてみましょう。ここから見えるのが、右側が水石山、あれが閼伽井嶽、一番左が湯の岳です。昔は全部田んぼだったので水が入ると、山並みがきれいに映って綺麗な景色だったんですよ~。あと、真ん中手前あたりにVの字に山の切り立ったところがありますよね。そこがいわゆるV字谷です。」
蛙の声が聞こえたり、サギが飛んでいたり、とても素敵な景色でした!
他にも、様々なお話を聞かせていただき、青木さんのお話のおかげでやっと、ここ平に城があって、そこに向かっていく人々、町の様子や位置関係なんかも想像することができました。ご協力いただき、本当にありがとうございました!
さて、次は平の町側へ戻っていきますよ~!
続いては、『菩提院』なのですが、上まで自転車で上がるのは今回は難しいので、下で少し話をしました。
北林さん「菩提院が今ここにあるんですけど、最初は大舘にあって、その後は平の廿三夜尊堂がある場所に移動して、で今ここに。平の城の遍歴とずっと共にあったんですね。やっぱり町側にあった頃の影響もあって、平の町衆はほとんど檀家さんで!なんで自分のところは違うんだろうと思ってたら、ルーツを辿ると私の家は奈良から来てたからでした。」
菩提院が開かれたのは慶長4年(1599年)。浄土宗の名僧、袋中上人(たいちゅうしょうにん)は、磐城平13万石の戦国大名・岩城貞隆の帰依を受け、菩提院を開基しました。関ヶ原の合戦後、大舘城に代わって新たに平城が築かれ、同時に菩提院も城外へ移されました。二世良隠上人の代に、現在、廿三夜尊堂がある場所に移転。現在の地に移ったのは大正時代です。
また、上人は渡明求法を志しましたが、果たせず琉球王国に滞在(1603~1606)し、念仏を琉球に初めて伝え、その教えが当地の歌踊りと融合し、エイサー踊りの起源になったと言われています!
では、やっと城山を降りていきますよ~!城山だけで十分なくらいのボリューム感ですが、今回は町の方も少し走っていきます~
そして、『松ヶ岡公園』に到着!このあと町の方に出ると、狭い道が多く、自転車を停めて話すことが難しいので、ここで先に資料と共に北林さんに説明していただきました!
北林さん「まず、山形屋さんから。レンガ通りの、大石って蕎麦屋さんの手前にある、三味線、琴屋さんで。その辺が、平芸妓って呼ばれた芸者さんたちがいた町だったんです。明治時代に、『平の大火』で燃えちゃって(平の町の三分の二が燃えた)、その時にこの町の復興をどうするってなった時に、江戸情緒溢れる芸者さんたちの町を作ったらしく、いわゆるテーマパークですね。その名残が、山形屋さんです。これとは別に、鎌田町の方にも遊郭があったそうです。」
芸者さんの写真資料を見ると、凛としたかっこいい女性たち。まちの復興のため、女性たちが活躍したんですね~かっこいい!
北林さん「そして、山形屋さんの後に行くのが『第2藤田ビル』という場所です。そこに、かつて『藤田女学校』という学校があったそうです。そこの校章がオークションに出ていました(笑)」
参加者「お~1万円ですか~!」
高等女学校令(明治32年・1899)で私立の女学校設置が認められ、平町でも近代的な女子教育を広めようと、明治38年(1905)に平陽女学校、藤田女学校が相次いで開校しました。
ー天才女流歌人”田部君子”の壮絶な人生
北林さん「その藤田女学校出身者をリサーチしていたら、たまたま見つけたのが、『田部君子』さんだったんです。これまでほとんど語られてこなかった方で、平エリアでは1番フューチャーしました。」
田部君子さんは、若くして短歌結社・潮音社に加入して活躍した天才女流歌人です。大正6年に、入遠野で生まれますが、平に住んでいた祖父母が、初孫の君子さんが可愛くて引き取ることになり、田部君子さんは平の町で育ちます。
平に住んでいたこともあって、藤田女学校に通うことになり、そこで短歌に出会い、歌を詠み始めました。高校生でありながら、特選に選ばれるなど、才能が高く評価されていました。
しかし、20歳の時に大家族の農家に嫁ぎましたが、相手の家族らは女性が歌を詠むことに否定的で、結局息子を連れて家出します。昭和14年(1939)に、子供は自分の親に預け、単身上京して夫とも離婚しましたが、憧れの東京歌壇は、戦争賛美だらけで失意し歌をやめてしまいます。その後、戦争の最中に助膜炎を悪化させ、27歳の短く儚い人生を終えました。
北林さん「歌会が色んな場所で開かれてて、東京や鎌倉で開催している中、ここ『旅館ときわ亭』も会場として使われていたようです。それで、実はこの前、みんな(時空散走メンバー)でご飯を食べながら歌集に残されている歌を、ここで詠まれたんじゃないかって予想しながらマッピングしたんですよ。」
北林さん「田部君子さんの歌集は、姪っ子さんたちが作ったもので、自分たちの母親がずっと君子さんが亡くなったこと、君子さんの歌をちゃんと残せなかったことを悔やんでいたのを見ていて、お母さんのために、ということで、自ら調べて、収集して、歌集としてまとめられたそうです。そして、当時の勿来関文学歴史館の館長を務めていた方が、たまたま古本屋でその歌集を見つけて、令和3年に企画展を開催されていたんです。それがなかったら、私たちも見つけられなかったです。」
北林さん「もし、元気でずっと歌人をやられていたら、もう日本中のだれもが知っているような歌人になっていたんじゃないかと。そんな方がいわき平出身でいらっしゃったという事実が、全然語られていないんです。いわき時空散走をきっかけに、最終的に歌碑が立ったらいいなって思います。」
田部君子さんのように、”語られていない”偉人たちが、本当はどの地域にもきっといるはずで、そんな人たちをいわき時空散走ではフューチャーしていきたいという思いがあります。
そこに光を当てることで、今を生きる私たちに伝わることや、救われたりすることがあると思うのです。
だからこそ、大切に、丁寧に、この地で生きてきた人たちの生き様や物語をすくい上げてマップにすることで、この先もずっと伝えていけるようにしていきたいですね。
ー人知れず佇む産婆
それでは、再び走り出します!次のスポットは、『鷹崎千代子像』です。今回は、草木で生い茂っていて見えづらかったですが、公園の裏にひっそりと佇んでいます。
かつては、ここに鷹崎幼稚園がありました。鷹崎貞衛(平町会議員/石城林業社長)の妻である、千代子は、いわき初の近代的な産婆学校を作り、生涯で約2000名の産婆を育成したといいます。
そして、そのすぐ先に、先ほど紹介した『山形屋』さんがあります。平芸妓の花街文化を今に伝える創業100年以上の老舗の和楽器屋(三味線・琴など)です。この通りは、今でも繁華街として残っていますが、当時はどんな街並みだったのが、想像が膨らみますね。
その後、『藤田女学校跡』である第2藤田ビルを通り、次に到着したのは、『廿三夜尊堂』です!
菩提院の説明の時に、さらっと登場しましたが、江戸時代に菩提院があった場所で、周辺は菩提院町と呼ばれていました。女性の守護仏として信仰を集める勢至菩薩(せいしぼさつ)が祀られ、二十三夜尊講では縁日が出て大賑わいだったそうです。二十三夜の夜に人々が寄り合い飲食などをともにしながら月の出を待つ行事で、現在でも行われています。また、鳥居家の時代は刑場で、その供養塔があります。
ーFAROにゴール!
今回は、スタート地点のいわき駅までは戻らず、北林さんがオーナーを務める『Guest House & Lounge FARO iwaki』にてゴール!
ここで2チームが合流し、それぞれパフェやドリンク、好きなものを注文して食べました!運動後の甘いものにみなさん満足げな様子でした~
最期に、みんなでツアーに参加した感想を共有し、どちらのチームも楽しんでいただけたようで良かったです!これにて、ツアーは終了です!
2つのチームに分かれて行うという、いわき時空散走ツアー初の試みでしたが、同じコースでもサポーターさんのそれぞれの視点や思いの違いがあり、面白いツアーになりました!
また、夜には、FAROの建物の3階にある、『La Stanza』にて、北林由布子シェフの、いわきの食材をふんだんに使った絶品料理と共に、『いわき時空散走マップを囲んで語る会』を実施しました!
今回はツアーに参加できなかった方や、『いわき時空散走』の取り組みに興味のある地元の方々、他のエリアのいわき時空散走サポーターの皆さんも大集合しました!
美味しいご飯を食べながら、参加者の皆さん同士や、いわき時空散走メンバーとも交流することができ、今回ツアーを実施した5つのエリア(大野・玉山、植田・佐糠・金山、小川郷、赤井・平窪、平)のマップについて様々な話が飛び交っている様子でした。
地元の方々でも知らない話が多いようで、「自分の住んでいるエリアもやってほしい!」という声もあり、徐々にいわき時空散走プロジェクトが、地域の皆さんに伝わってきているのが感じられ、嬉しい限りです。
ひとまず、いわき市内の14駅を軸にマップを作成していく予定です。各エリア、リサーチを重ねてマップを作成し、いわき時空散走フェスティバルでは、毎回すべてのエリアのツアーを実施していきますので、皆様今後ともよろしくお願いいたします!
文章:井上栞里(NORERU?広報)
写真:鈴木譲蔵、寺澤亜彩加(事務局)、渡邊淳(NORERU?広報)
■『いわき時空散走フェスティバル24春』レポートはこちら
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