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オートバイの技術と人の進歩、または、それもまた何かの過程という

大雑把な線しか引けないコンピューターもあれば、知っている漢字しか入力できない機械もあった。iPadすごいよねえーって話なのか、と言われると、そういう話ではなくて。
ロングピース社のコンピューターが、文章を書こうとするとしまいには「それってつまりこういうこと?」とか言うのと同じようなことが、そこかしこで起こっている、気がする。


例えば、今作られているオートバイのほとんどはコンピューターで制御されていて、「全開だぜー!」って、がばっとアクセルを開けると、少しは猛加速っぽさを演出しながらも、「いや人間よ、このくらいでいいじゃろ?」ってガゾリンを吹く量をいい塩梅にしてくれていたりする。


さて、そこで、「いや、コンピューターに適当にされるとか、人間を馬鹿にしとるのか!」って……言うのは簡単だけど。じゃあ、その、少し人を化かすような、みすかしているような、そんな奴らとわかった上で対峙する、っていうスタンスを、SFとか読んでいる人間ならば取るべきなんじゃなかろうか。

機械がどれだけ進化しても、その機械を動かしたやつが責任を取る。自動運転で暴走しちゃった時、悪いのはエンジニアですか、乗っている人ですか、ってのは、そりゃ乗ってる人が悪いでしょ。そのダメな車を走らせるのを決めたのは、ボタン押したのはそいつだもの。空を飛ぶなら墜落する事を想定しない奴はいない。道を走るなら他の人には当てないように走らないといけない。それができないなら道に足を踏み入れちゃいけないんじゃないの、と。

でも、そうするってえと、横柄な走り方する奴に代わって、周りに頭下げて回る車とか、そんなのもあらわれるかもしれない。まあ、その技術が凄いことになっても、あまり世界に貢献しなさそうだけれど、そもそも技術は世界に貢献するためにあるわけでもないよなー、と思ったり。

車やオートバイはどこかで走ることに向き合う仕組みが必要なんじゃなかろうか。というか、これまで生み出されてきた仕組みや、工夫は、ほとんどがそのためにある、といえる。タイヤの大きさを変えて、走りやすい大きさを模索したり、ブレーキを人間の感覚にどれだけ近く反応できるか工夫したり。

クラッチがなくなって、パドルシフトやらオートマチックミッションになっても、電子制御でサスペンションが状況に応じて硬さを変えてくれても。かりにほぼ全てをコントロールしてくれるAIが乗っているとしても、それを走らせるのは人なんだよね、なんてことを思った。

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