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自己肯定感について

ひと昔前は特に「厳しく叱咤をしてくる人」が多かった。
自分自身も、それを心の底では苦痛と思いながらも「そういうものか」と思いながら、時にはありがたがりもしつつ、日々を過ごしてきた。

やっかいなのは、そこに他人のパーソナルの部分を絡め、人格に踏み込んだ叱咤や否定的なアドバイスをしてくる人。
ex)お前のこういう性格がダメだから、上手くいかないんだ…みたいなの

こういうアドバイス?を経て、人は無意識に「自分はダメだ。もっと頑張らないと。もっと頑張らないと。」という自己否定感を植えつけられて生きていく。
その結果「反骨精神」や「弱点克服」といった言葉の鎧を自分に着せて、常に何かに不足や欠乏をした状態で生きていく事になる。

僕はそれに気づいてからは、今は、それが例え世間話レベルでも自己を無闇に否定してくる(若しくはしてきそうな)空気を持った人とは徹底的に距離を置くようにしている。
あと、誰か上手い事行っている人をやたら引き合いに出しつつ、言外に「お前のやっている事ってどうなん?」みたいな "否定" の雰囲気を漂わせてくる人とも距離を置く。
もう少し暴力的に言うと「自分を褒めてくれる人」と極力一緒にいるよう、ある時期から努め出した。


その結果どうなったかと言うと…


より良いパフォーマンスをすることができるようになったし、周りに応援してくれる仲間や味方もさらに増えた。
あと、「出来ないことは出来ない」と開き直ることで、逆にその部分を助けてくれる人に恵まれるようにもなった。


あえて断言しておきます。


「厳しさだって時には必要だ」という話は、あれは嘘だ。



「苦労をする事で報われる」系の物語や立身伝を、僕らは残酷なほど目に、耳にしてきた。

当然、努力をしたり、必死に頑張って活動する時期は、ある時期においては大切だと思うし、適切な努力は適切な結果を生むことも十分に理解している。

だけど、必要以上に何かにせき立てられるような気分で、見えない敵を常に想定し、焦り、常に充電が空になりそうな状態を保ったまま活動することは、心が持たない事にも気づいた。
常に "外側" の状況にがんじがらめになりながら振り回されるより、"内側" にある自分の心と常に対話しながら、自分の中にある唯一の羅針盤に従って動く事の方が、数億倍大事だとも気づいた。


僕は、「見えない敵」より「まだ見ぬ味方」を常に想像しながら活動を続けていきたい。



皆もうすうす気づき始めているんじゃないかな。


時には、普段言葉数の少ない友人が、一生懸命言葉を選びながら、僕の良い点や優れているところを語ってくれる時もある。
とても嬉しいし、ただただ励みになる。

これからは、いかに楽しく自分の持てる力をそこに注ぎ込む事ができ、周りにも必然的にアピールする、愛を与えるという形を取ることで、じわじわとでも同じ価値観の輪が生まれ、反骨精神にまみれた必死な努力をしなくとも、結果をダイレクトに享受することができる時代が、より具体的な形で来る。

だから、無条件に思う「自分大好き!」は超大切だし、自己を見つめた上で、全肯定とまでは行かなくとも、「プラスマイナスでいったら少しプラス」くらいの温度感ででもいいから、自己の肯定心は無くさず、日々を楽しく過ごしていけたらいいな、と思ってます。

今回はこんなところで。

※5/4よりnoteで有料楽曲の配信を開始しました。現在2曲リリース中です。
どちらも超良い曲なので、ご試聴のうえ気に入ったらぜひ購入し、生活のお供にしてやってください。


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