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不義理について

 何をもって「義理を果たす」「不義理を働く」になるんだろう。
自分としては意図がなく、結果的に利己的な行動を取ってしまった場合、それもやはり "不義理" と言えるのか。

僕は「不義理になる」と思っている。

色々と理由はあるけど、本来そこに至るまでに通さないといけないプロセスを放棄したり、もしくはそのプロセス自体の想像力がない限り、僕としては責任は自分にあると考える。

とりわけ、気心知れた近しい存在などに対してそういった態度を取りやすいし、だいたいのいざこざにおいて、他者へ対する感謝やリスペクトの念が抜け落ちていたり、自分の怠惰な感情から端折った行動が原因となることが多い。

結局、行動そのものではなく、そこに込められた理由や相手の思惑の行間を読んで、我々はその人の行動を「義理堅い」or「不義理だ」と仕分けする。
  

 自分が起こす行動が誰かにとって不義理となりそうな場合こそ、より丁寧に相手のアクションも想像した先見性が必要になるし、たとえ野暮でも説明することから逃げてはいけない。

日々言葉の強度も重要視したり、言葉だけじゃ繕いきれない姿勢や礼節も大事にするのは、こうした局面のためだと言っても良いかも知れない。

それが見えるか見えないかだけで、仮に「不義理」判定を下された場合でも、相手が抱く感情は何ら説明がなかった時とは遥かに違うし、コミュニケーションから逃げないからこそ "軽率な不義理" 、"あえての不義理" という繊細なラインも立体的になる場合がある。

そんなことを考えたこの頃。


 改めて襟を正しつつ、僕も言葉だけの誠実さにならないよう生きていこう。

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