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あみだくじの先に何があるのか

高校は男子校に通っていた。

毎日ゲームと、たまに勉強をするだけで、部活はすぐにやめたし、課外活動もなにひとつやらなかった。友達とどこかへ出かけて遊んだことも、ほとんどない。

眠い目をこすって満員電車に揺られて、学校についたらジャンプを読んで居眠りして、授業が終わったらまっすぐ帰るだけ。中学時代の友達が異性と「高校生」を謳歌して、酸いも甘いも経験していただろう3年間、僕の心はなにひとつ成長しなかった。

だから大学へは中卒で入ったようなものだった。



大学には、期待をしていた。

受験勉強から解き放たれて、ようやく「試験のための勉強」ではなく「学ぶための勉強」ができると思っていた。

ところが実態はまったく違っていた。

はなから学生に教える気のない教授。講義よりも学会を優先する教授。あからさまに差別やセクハラをする教授。

彼らは何も教えてくれなかった。

大学1回生の前期に「基礎ゼミ」というものがあった。

「中卒」のまま大学生になった僕は友達の作り方もよく分からず、4月、5月をぼーっと過ごし、研究発表のグループ分けをする日があったのだけど、なにかの理由で欠席してしまい、どこのグループにも属せないまま前期を終えた。

心が育たずに子供じみていた僕は「なんで先生は、仲間外れになっている僕に声をかけてくれないのか」と憤った。

グループで発表するゼミなのに、たったの1回休んだだけでグループに入れないなんて不公平じゃないか、と。

ますます大学に行きたくなくなり、すきを見ては家に帰っていた。ゼミの同期たちがみんな仲良く学食でランチをとっている間、僕は家でひとりチキンラーメンを食べていた。

基礎ゼミの単位を落とせば、進級はできない。大学生活がはじまってわずか半年で留年が決まってしまう。それだけは避けたかった。

僕は基礎ゼミの担当教授のもとへ赴き、教授室で頭を下げた。発表グループには入れなかったけど、やれることはやったから、どうか単位を落とさないでほしい、と。

情けなかった。単位を懇願するなんて、人として恥ずかしいと思った。でも、そのときの僕にはそれくらいしか手がないと思った。

学生が頭を下げたくらいで、単位をどうこうするわけはないだろうけれど、僕は無事に基礎ゼミの単位を取得できていた。

評価は60点。ぎりぎりの点数で、先生の「お情け」はやっぱりあったのかもしれない。



大学に半年通って、僕は気がついた。

大学という場は、基本的に学生をほったらかしなのだと。

何かを手取り足取り教えてくれるわけでもなく、学びたい方向にロープを引いて導いてくれるわけでもなく、キャンパスですれ違っても声をかけてさえくれない。

基本、放置。

大学生活をもがいていた僕は1回生の夏休み、カリフォルニアに短期留学をして、日本のことを聞かれてなにも答えられない自分が情けなくなり、もっと日本のことや自分の知らないことを学びたいと思った。

それには「大学を利用するしかない」と、心を入れ替えた。

僕は単位を取得しなければいけない講義は最低限だけ受講して、自分が受けたいと思う授業にもぐりこむことにした。

単位はもらえないけれど、その講義を受けたい、その教授の話が聞きたいと思うものを勝手に選んで、学部や学年の違う生徒にまざって聴講していた。

ある少人数制の英語のクラスでは、さすがにバレると思い、アメリカ人の先生に「僕は本当ならこの授業を受けられない者なんです」と告白した。先生は「だから何だ?」と肩をすくめて、モグリの生徒を咎めなかった。

そのクラスでは英語で作詞するという課題があって、テーマは「納豆」だったのだけど、僕は「Never Never」と納豆のねばねば感を歌詞にこめて、先生に苦笑いされた。

でも、けっして教室の外に出ろとは言われなかった。モグリであるかどうかは忘れて、ひとりの学生としてフェアに接してくれた。それがうれしかった。

学びたい者には、手を差しのべてくれる。ちゃんと学びの機会を与えてくれる。

大学がどういうものであるかは、結局は自分次第だったのだ。



時は経ち、大学卒業を3週間前に控えたある日。

卒業に必要な単位が不足していて「卒業式には出られない」「留年してもらうことになる」と、学部職員に不意に告げられた。

単位の取得状況はアナログかつ学生各自の自己責任で管理されていて、自分が卒業単位を満たしているかどうかは告知もされず、確かめる術もなかった。だから学生は「これだけ取得していれば十分だろう」と安心できる数だけ、単位を余計に取得していた。

けれど僕は単位取得につながらない授業にもぐってばかりいたので、単位数が124と、必要の数ぎりぎりだった。

そして、そのうちのわずか2単位。アメリカに留学した際の単位が正しく認定されていないことがわかった。

その留学単位の「解釈」をめぐって、僕は学校側と激しく対立した。学部職員と口論になり、呼び出された学部主任には冷たく突き放された。このままでは納得がいかないと思い、反撃に出ることにした。

他学部の状況や過去の事例を調べ上げ、自分の主張が正しいものであるという確証を得るべく奮闘した。

同じ学部の友人や、すでに卒業した先輩に取材し、いかに学校側に非があるかという裏づけをとっていった。さらには学長にも直談判を申し出たが、これはさすがに秘書に止められた。

とにかく、できることは何でもやった。

ひとりの学生の情熱のほだされたのか、あるいはこれ以上学校内をかき乱されることに危機感を覚えたのか、「松岡厚志という学生を卒業させるか否か」というテーマだけで、異例の臨時教授会が開かれた。

3、4回生時のゼミの担当教授は、学校側の立場であるにも関わらず、最後まで僕に味方してくれた(いま思い出しても泣けてくる)。

教授会が終わるまで祈り続けた結果、僕は晴れて大学を卒業できることになった。



僕は社会学部というところに属していたけれど、学部長には最後にこんな言葉をかけてもらった。

「社会学とは、常識を疑うこと」

学部の単位制度に瑕疵があるのではないかと疑い、一石を投じたきみの姿勢は間違ってなかったと、最大限の賛辞をもらった。

この件の問題点を、感情を排して事実だけを書き連ねた「意見陳述書」を学部側に提出していたのだけれど、それについても「よく書けていたので学部側の戒めとして保管させてほしい」とまで言われた。

いや、まあ、実際のところ、学校側は「ややこしい学生を早めに快く追い出したかった」のかもしれない。けれど、僕は自分が納得のいかないことに対して声を上げたし、やれることを全部やったことに対して後悔はなかった。

もしも卒業を認められてなかったら「あの大学はクソ」と言い続ける人生が今も続いていたかもしれないけど、それでもやっぱり「やれることをやった自負」は消えなかったと思う。

あれは自分にとっての「最後の卒業試験」だったのかもしれないと思うと、大学には感謝さえしている。

ちなみに日大にタックルされた大学なのだけど、とても心のある先生方が多かったです。本当にありがとうございました。



人生はあみだくじのようだと思う。

それは「その先に何があるか分からない」という意味ではなくて。

ゴールは定かじゃないけれど、目の前に分岐点が何度も現れて、そのどちらに進むかを決めるのは自分次第だという意味で。

必ずしもルール通りに角を曲がらなくても、まっすぐ進んだっていいんだから。

僕たちは理不尽なことに見舞われたときだけでなく、日頃から何をし、誰と会い、どんな言葉を発するかで、分岐をひとつ、またひとつと選択して進んでいる。意識的にしろ、そうでないにしろ、確実に「然るべきゴール」に向かっている。

その先にあるのは、自分がこれまで選んだ過程の積み重ねにすぎない。

あみだくじの先に何があるかは、だれにも分からない。でも、人生のあみだくじは案外フェアで、因果応報だ。

楽しいことを続ければ人生は楽しくなるし、誰かをクソと罵倒していたら、クソみたいな人生になるだろう。

あみだくじを「引いて楽しい」ものにできるのは、自分だけだ。

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