苦手なこと

苦手なことがある。
動画の倍速視聴だ。

何故苦手なのかは分からない。むしろ今まで避けてきた。何となく自分にとってはよくない印象を持っている。そして実際のところは、この倍速視聴を一度っきりと試したことがない。とは、もう最初から揺らいでしまいそうだけれど、こっちに言い換えたほうがいいのかもしれない。
一度も触れたことがない。でも苦手だと想像できる。
物は試しだ。腹を括って、好きなお笑い芸人が毎週木曜日に投稿している公式チャンネルのラジオを聞く。動画再生速度を1.25倍速に変更して、動いたシークバーを元に戻す。聞き慣れたはずのオープニング曲がわずかに早い。のっけから胸を締め付けられるこの違和感はいずれ慣れるものだろう。不安が半分。諦めがもう半分。あとはひとかけらも残らない自分自身への変化に望みをつないで。いよいよ、いよいよ始まる。

どうも。
はい、どうも。
ええ。〇〇の〇〇でございます。
はい。第〇〇回です。
ええー。

普段よりか気持ちの分だけ走っていると錯覚してしまう二人の掛け合い。
声がうわずったり、震えがあるのだというふうに聞こえなくもない。内容はあまり入ってこない。けど、こちらは胸のざわつきを受け入れつつある。そわそわしている中で。少しずつ。これなら行けそうだぞ。と思う矢先。会話が耳と耳をすり抜けるのはしょうがないとして、時たまマイクが拾うノイズ音をどうにかしたくなった。雑音が人の声以上にもやもやする。日常と変換できない異音。スピーカー音量を小さく調整する。間と間を埋める二人の呼吸が、一息ごとに迫ってくる。徐々に浅く、息が詰まる。同時に、この動画内ではサムネイル作成の作業風景が流れており、気を紛らわそうとそちらに目を移していた。耳から耳へ。ぼーっと画面を眺めるうちに、シークバーがどれだけ進んでいたか。カウントされる数字を確認する。
体感含めて、この時間は全部が1.25倍速になっていた。

9:01
9:02
9:03 9:04 9:05 9:06 07 08 09……

うっ。
あのっ、全部が逆流しそうな。ちょっと、無理だ。一旦ストップ。
これは多分だめなやつだ。


他の動画ならどうなるんだろう。
例えばさっきとは別の芸人によるライブ動画とか。
過去に何度となく作業用で流していて、寝る寸前の導入でよく使う動画だ。内容から仕草までほとんど頭の中に焼き付いているから気を取られることはなさそうに思えるし、いい意味で一点に集中しないで済みそうだ。
漫才ネタ十数本がまとめられた再生リストをシャッフルで、いざゆかん。

と、まあこれでは意味を成さないのは、先が見えていたわけで。
また別の手を打ってみる。適当な単語で検索。全く知らない人が上げた雑談配信。数分間に満たないショートアニメ。いくつかのニュースチャンネル。地元YouTuberと企業の社長による対談形式のインタビュー。
どこでどうなったのか、あれこれ試すうちに、動画速度を標準に戻した状態で好きな芸人のラジオを聞き直す自分がいた。

思うに倍速視聴は単なる慣れの問題なのか。
大多数でなくとも世の中にこれができる人がいるという事実。いずれ自分はできるようになるのだろうか。

そうか。今日が最初だったから。
ただの混乱で戸惑ったのだとそう思おう。
入社一ヶ月過ぎの電話応対みたいなものだと。
聞き取れない会社名と顔の浮かばない声と名字と、右手に置かれたメモ用紙を綺麗にすり抜ける用件一つ一つに、再度焦らせる連絡先の確認。
なにひとつ及ばない。あの緊張と重圧。うわずる発声に、受話器を持つ手が震える。
それがちょうど1.25倍速。
あと三日もすれば機械的に覚えるさ。苦手なことってその程度のことだ。

苦手なことって。果たして、そうだっただろうか。


毎日提出できなかった、居残り分を上乗せされる学校の宿題だったり。
誰かのミスでかかる号令と、律儀に回数を積む筋トレペナルティだったり。
先輩社員より受ける業務指示だったり。一日目の電話応対だったり。
帰り道の楽しみとなっていた自販機のスポーツ飲料が、打ち上げのビールジョッキと乾杯の合図に代わるまではだいぶ月日がかかってしまったけれど。わたしが苦手を克服できた時はあっただろうか。
とんと記憶にない。
いつの間にか、苦手ができるようになるまで続けられたことが、あるにはあると思いたい。恐らくは、自分の中で好き嫌いを作り出していた子どもの時のトマトスープのように、ふと思い返したら得意、好きみたいな、何らかのきっかけで変わることがあるのだろう。まだまだ缶入りの100%トマトジュースよりは果汁系の甘いジュースを選んでいたとしても。まあ、それはそれで別にいいか。

思い出ついでに白状すると、定番の野球、サッカー、バスケの中では世代もあってバスケばっかり遊んでいた。そのためか、昭和の男の子がみんな通るキャッチボールという遊びをきちんと理解できていなかった。
キャッチボール。ボールをキャッチする。投げられたボールをキャッチ。
英語に直したら、"play catch" とかなんとか。
わたしはてっきり、これをボールを投げるために行う遊びであると、ずっと勘違いしていた。
ボールを握って。フォームを固めて。タイミングよく指を離す。相手の構えるグローブを見て、大体わたしから大きく右上の方向へ、ボールが逸れる。無理ー、ごめーん。駆け足でボールを拾いに行く友だち。
友だちが投げ返すボールについても上の空で、次はどうやって投げればよいのだろうと、再びグローブの中のボールを見て、しっかり握りを確かめる。
投げる。そしてボールを拾う友だちに、ごめーんと声を掛ける。
どうもピンときていなかった。
だから、いわゆる会話のキャッチボールという例え方が漫然とすり抜けてしまうように、飲みの場で目上の人が用いたキャッチボールをわたしは後先を考えずに補足してしまうのだ。


それはつまり。
play catch なんだと。

投げられたボールを、そう顔を合わせる相手からの、投げられたボールをキャッチする。
グローブを構えて。
手を振ったり合図を送ってもいい。
ボールの動きを目で追って。
ぴたりと構えた位置に収まる。
いいボールだった。ナイスと声を掛ける。
こちらも次の投球動作を真似てみる。

相手を見て。その左手に構えられたグローブを見て。高さはだいたい顔のあたりか、距離はまちまち。でもそんなに離れていない。腕を振る強さや角度が気になる。リリースポイントとかボールの縫い目とか、全くもって理解が足りていないけれど、まずはできる限り投げてみる。自分の思いでボールを離す。

送球はふわりと山なりになる。ダブルプレイを狙うセカンドや進塁を防ぐキャッチャーのような、プロ野球と漫画の描写をイメージする一直線の矢には決してなるはずがない。それでも目一杯にグローブを動かしてボールを追う相手の姿勢は、ベースを守るファーストの柔軟性とほぼ重なって受け止められるのだ。

オッケー、ナイスボール。
掛けられた声にこちらもグローブを上げて応える。

つまりは。
play catch なんだと。


それくらい、苦手なんですよ。キャッチボール。

ビールジョッキ片手に長々、わたしと目上の人との二人だけが喋り続ける飲みの場は、野球を用いた例え話であるのに、近くで聞き入る女性陣も一緒になってキャッチボールめいた会話が続いていた。
なるほどねえ。構えたところに投げる。受け止めないとだよね。
苦手を明かす分だけ、反応が広がる。
今日という飲みの場は、精神保健、医療、福祉で言われる『リカバリー』をテーマとする5日間の研修を終えた後の打ち上げだった。

って、話が急に飛びすぎてしまうか。


この5日間を私達は同じ場で学び、実践し、そしてそれらと日常をつなげるためにこれからを描いていた。
居酒屋の座敷を二部屋つなげて、懇親会に参加する20名ほどの集まりは、専門職、当事者家族、当事者と分け隔てることなく。それぞれの思うリカバリーを掲げている。
そこから一つ。会話って難しいよねという流れの中であった。
専門職同士によるスピーディーかつ確実な意思疎通がある。
当事者家族であれば、日々の生活だったり、つながりを求められる安心と思いやりの言葉がけであったりするのだろう。
当事者。実はこの当事者間における会話こそが人それぞれだと思っている。もっと自分勝手に言えば、穴があるとか、欠けが見えるとか。同じ境遇、同じ病名、同じ症状、同じ体験。同じような話し方を我々当事者は持たない。その人と人の分だけ何もかもが違ってくるはずなのに、それ故に意思疎通や他者とのつながりで悩むことがある。
きっと他意はなくとも、この場所に「会話のキャッチボール」という単語が選ばれた瞬間に、わたしの心は揺れてしまった。


ここから先はメンタルヘルスにおけるリカバリーについて。そのうちの一つで私達が今回学びをともにした『WRAP("Wellness Recovery Action Plan" の頭文字、日本語では元気回復行動プランとも呼ばれる)』を紹介したい。
これを口頭で説明しようとすると、毎回毎回、勧誘じみてしまう空気が厄介で苦手なのだけれど。わたしの前には構えられたグローブがあると信じて、そうっと投げてみる。


WRAPとは、
・希望を持つこと。
・自分が主体となって責任を果たせること。
・学びを得られる余白があること。
・お互いにかかる権利擁護を尊重できること。
・支えられるサポートと支え合うサポートがあること。

この5つの項目を大切にしている。
上は、細かな言い回しに自己流のアレンジが含まれているが、概ね、希望、責任、学び、権利擁護、サポートの5つを備えて、「日常における(WRAP流に言えば)いい感じの自分」でいられることを目標に掲げる。

ひとまとめにして、WRAPとは「地図を持って歩くこと」だと。
あえて、さらに噛み砕くなら、今のわたしはWRAPをこんなふうに例える。

近所の地図を持って歩く。慣れない土地ではスマートフォンの地図アプリに頼ったりもした。時には立ち止まって、後戻りはある。そうすると、道のりが確認できる、安心できる速さが浮かぶ。

雨が降ったら、傘を差して。
暗闇の中には、明かりを灯して。
隣の人に役割を託すことだってある。
戻れそうな所で引き返すこともある。
こうやって歩けるだけの速さは、どれだけの時間をかけてでもたどり着けそうな一人一人の可能性を秘める。

子どものわたしが思い描いた世界では、F1レーサーとピットクルーらが一分一秒を競争するチームワークを見せていただろうし。整備士から管制官まで機体を操縦するコックピットの景色は夢のままに終わったとしても。
その人なりの日常の世界地図なら、ここに持って歩いていける。

まずは一歩目。
近くの公園までたどり着けたなら。
その時は友だちと一緒になって、山なりに相手へと届くキャッチボールで始まってもいいと思う。


立ち止まったり。後戻りしたり。引き返したり。
何度も確認して歩いたはずなのに、求められる速度で伝えられないから。
やっぱり苦手は苦手なままだ。
倍速視聴に会話のキャッチボール。
WRAPとメンタルヘルスのリカバリー。
だから、この苦手なことを今回のテーマに決めておこう。
のらりくらり続けてきたnoteはnoteで、わたしにとって苦手な物の一つであるから、とりあえず今のうちに書いてみよう。

タイトルとかはそのまんまで、『苦手なこと』がいいかな。

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