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KST、連綿とつづくわが儚き人生

2024年のらハジメ。
クリスマスに洋書のタッシェンから買ってた分厚い本を「読み初め」として開くと、そこにはあのキューブリックがいかにしてナポレオンという人物についての映画を撮りたくて撮りたくてたまらなかったか大きく溜息が漏れてしまうほど。
膨大な画像の数々。オックスブリッジの歴史研究者との綿密なやりとり、衣裳や小道具など細部にこだわった準備の写真などなど。映画会社との手紙のやり取り、メモ、テキスト、スクリプト、ああああ。現代のようにそれぞれのパソコンなどにデータ保存なんかできない時代。

頭に落ちてきたら天才映画監督になれるかしら

2001年宇宙の旅の後の企画だったわけだから、ほぼ1968年という時代に、キューブリックはいかにしてナポレオンを撮るかという挑戦を試みていた足跡を知るだけでもこの本を手に入れて翻訳ツールと駆使しながら読み始めたが、あれこのデジャブ感というかどこかで少し味わったような感覚は何かとはたと気づいたのが、2021年から22年にかけてカナダで撮影した  『Shōgun』だった。長い道のりの今作もいよいよ2月27日全世界一斉配信でお披露目する。長かった。オーディションを含めたら一体何年かかったのか。それほど大きなチームへの参加だった。

あの撮影に参加するにあたりこの私があれこれ調べたりもしたが、足で歩いた三浦按針ゆかりの地・横須賀安針塚詣、そして伊東。元々の原作クラベルの将軍を上中下巻をまるでバイブルのように抱えて出国、約1年のカナダ撮影に挑んだわけだが、撮影中は図書館でもさまざまな文献をひっくり返したり私独自ののら的ではあれど将軍にまつわる研究に余念はなかった。それは私の単なる気分アゲアゲの儀式みたいなもので、何かに役に立ったかはわからない。でも気分はあがったのでよしとする。

滞在先のコンドミニアムのダイニングにいつも読めるように置いていたバイブルたち
原作本は上中下巻の3冊、tbsブリタニカから出ていた
カナダの図書館で借りた侍映画に関する本
横須賀の安針の塔

『 Shōgun 』の主人公は家康をモデル?にした将軍とウィリアム・アダムス、後の三浦按針の話。実際の歴史上に実在した人物がモデルとなっている。家康は当時、そのイギリス人に三浦安針という日本の名前、そして三浦半島に領地も与えた。最後は平戸で亡くなったと言われている。
私は、主人公の将軍の正室の役だったので、将軍、つまり夫をどのように支えてきたか、安針、周囲の武将たちなど、どんな世界が待っているのだろうか、そんなことを大海原を望むような途方もない大プロジェクトに、どう配備すべきなのか、考えていた。でも、ある時、それよりももっと大事なことに気づかされたのだ。まずは土地を知ること。カナダという土地で就労するということ、そこに錨を下ろすことだと。私は早速街をのらのら歩き、できるだけ遠くへしかも歴史がわかる場所、そしてたどり着いたのが、日系移民とブリティッシュコロンビア州の先住民居住区だった。そこには私にはわからない文化があった。信仰もあった。日系移民の暮らしぶりは強制収容所などの跡地を訪ねた。なぜか鳥居もあった。そういえば当時の収容所には、民間信仰のようなものはあったのだろうか。

山に囲まれた元日系移民収容所現在は日系博物館
海辺にあるSecheltの先住民居留区には海に向かってトーテムがあるこれも信仰

北米ハリウッドという大プロジェクトの撮影に参加し、異郷の地の文化を知る。
昔からその地で暮らしていたファーストネイションと呼ばれる先住民たち。
彼らの信仰。人が生き物たちと共存しながら地球に生きるということ。そこには危険も孕んでいる。月や日のめくり、共存する動物や自然への感謝、山や海といった異なる風土で増えていったコミュニティの衝突、そして連携。北部の厳しい自然の中で育まれた知恵や風習。ヨーロッパや外国人入植以降の彼らの暮らしの変化などなど。私は先住民居留区の足跡を訪ねながら、ふとネパールのシェルパ族が暮らすクムジュン村滞在を思い出し、ベーリンガル海峡を越え遥か北の異郷で暮らす日系移民のことも考えてみたり。そして私も現代の移民じゃないが労働でやってきた日本人であることも。しかも遠い時代の歴史ドラマを撮影するという巨大プロジェクトに参加しているという。
濃厚な時間だった。故に帰国後まるで浦島太郎子だった。
そして今の世に項垂れながらも。

将軍チームには遥か日本の京都からも選りすぐりのスタッフが集結、原田徹監督のパンちゃんも参加!
みんなを和ませてくれていた

2023年は、世の中の諍いに項垂れながら、宮古島の神歌についての学びや沖縄の信仰についての個人的興味の調査と、日常の忙しさのアンバランスの中、思い切って居住を変えてみた。
この思い切りが吉と出たようだ。
私は幼少の頃に戻ったように毎日のようにのらのらほっつき歩くようになった。
関東平野、武蔵野の赤土で育った私には、ひょろり大きな雑木林の緑道や川や湧水が慣れ親しんだ光景の中、ひとりで青鷺に話しかけたり、季節の植物を楽しんでいる。特に、秋からこの冬にかけては、紅葉、落葉、枯れ葉踏みをしながら、連綿とつづく人生の折々を回想している。昨年末、砧公園の中にある美術館を訪れ、美しい砧の紅葉の中、枯れ葉を踏みしめていると15歳でこの公園で初めて巨匠と呼ばれる写真家に「撮影」されたあの瞬間も回想したり。東京の自然の中で育まれた私なのだなという実感。あの枯れ葉踏みをした私以前も私は小さな頃から枯れ葉踏みが好きだが、それ以降も、ずっとずっとカナダでもしてきたように、枯れ葉を踏みしめながら大地を歩いている。


今年も始まり、元旦から近所の川のほとりを歩きながら、神社へ初詣に出かけた。この界隈は神社仏閣多いのに気づく。東京は戦争やさまざまな影響で都会にあった寺が郊外へと移ったのは良く聞く話。
訪れた近所の鎮守の神様は、江戸城築城のあの太田道灌がここに鶴岡八幡宮と同じような八幡様をということで作られたものだと知った。近くの川にかかる橋には徳川三大卿が鷹狩にきた場所だったとか、暮らす場所の歴史の由縁を初めて知る。

そんな中、のらのら散歩している中で、なぜか私の気に留まる場所があった。
あれは何だろう?と元旦の翌日、探訪しに出かけた。
なんと庚申塔であった。

庚申塔
神社と寺の間にひっそりとそれはあった

庚申塔とはなんぞや。
調べてみると、60日に一度めぐってくる庚申の宵に夜明かしをする中国の道教信仰を源流とした風習が江戸の頃に流行ったそうだ。
青面金剛と三猿などが彫ってある塔を辻においたのがはじまりなんだろう。
地図代わりじゃないが町のあちこちにあったであろう石像の塔である。

そして庚申待(こうしんまち)と呼ばれる民間信仰の行事があった。
庚申の日を待ち、神仏を祀って徹夜で行うらしい。庚申の日に、体の中から三尸という3種のわるい虫が体から抜け出し、閻魔様に日頃の悪行を報告されるのを阻止するための男たちの徹夜だったそうな。

これは落語にもなっていて、庚申待と言われたり、宵庚申、お猿まちなどともいう。庚申待は村落単位で行われ、その集りを庚申講などと呼んだ。

なるほど。
こんなふうに江戸のその昔に民間信仰がちゃんと機能していたわけだ。
初詣に集う人々を横目に、忘れられたような庚申塔を巡って私は感慨深い思いに駆られた。さらには渋谷の金王神社の隣に見つけた庚申塔群に、麹町の心法寺の庚申塔を巡る三が日に、私は、連綿とつづく人生のあわいを感じずにはいられなかった。

庚申信仰は庶民の娯楽を兼ねていた
庚申塔群
カンボジアのアンコールワットでみたあれにも似てるよなとか

奇しくも金王神社は、私が15歳から師としてきた先輩から教えてもらった場所であり、所属事務所社長からカナダ行きのお守りをいただいたのも金王神社だった。
そして、心法寺は家康が三河から関東入りした際に開基した寺。
しかもここの庚申塔が実に鮮やかで新年早々心洗われた。

心法寺には墓所もあり塩地蔵もある
よく見つめると発見がある庚申塔

庚申塔。
それは、私に人生の中にある「あわい」というものを気づかせ、連綿とつづくことをも思わせる。庚申塔に関して調べてゆくうちに、2023年の年の瀬に国分寺まで買い求めたファイト最中をみうらじゅん事務所にお茶請けとして送って差し上げたが、なんとみうらさんも庚申塔に関してコロナ禍に言及なさっていた。しかもみうらさんらしく、庚申塔をKSTと呼んでおられた。

私は、庚申塔KSTを巡ってみたくなった。
なぜだかわからないけど。
枯れ葉の下で霜柱がおりた赤土を踏みしめ考える。
人として生まれた稀を。自然と共存している今を。生きている間の愉しさを。
歓びを。私はそれを人や世にどう与えているだろうか。

そんなこんなを昨夜から綴っているうちに日の出になり、今朝方、まさか私にとっての大きな巨匠の訃報を受けるとは。
儚い。

15歳落葉を踏みしめる砧公園にて 巨匠撮影による私 





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