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『白鍵と黒鍵の間に』初号試写から派生した感情のリヴェット

 思えばこの映画の存在を知ったのは今から3、4年前になるだろうか。
 まだその映画は映画としての実態は曖昧で、制作に向けて始動していルノかと思えば、そうだと決定的な答えもなかった。
 奇しくもそのとき、私は、監督と原作者とプロデューサーもそこにいて友人たちと共に自分の誕生日を過ごしていた。
 そしてそこにやってきた私の文春担当者がある一冊の本を鞄から出してきたのだ。それはそこにいる原作者のその著作本そのものだった。
映画化に関して何も知らぬ私は、これを映画化したら面白いのにねえとうたうように唱えると、そうなんですよと、監督。原作者も頷く。
 え?なにこれを映画化するの?冨永監督が?え?何?ワオ!
 原作本と著者と監督を前に驚きながらも喜んだあの日。
 そレから。なんだかんだ時は流れ。コロナ禍に地球上が混沌と巻かれ。私も日本を後にし長期のカナダ撮影に挑み、撮り終えて帰国したものの、私は何かますます馴染めないというか相容れないというか疎外というか全く交れない自分がいることを決定的に把握し、しばらくは映画と音楽と本にまみれなすがままに生きていた。

 ある日、事務所経由で映画出演の依頼があった。
 あの時のあの映画の出演の依頼だった。
 その配役を聴いて驚いた。主演の母親役。
 主演は原作者の南博で彼のお母さんだった。
 しかも私がカナダの現場で、ここに彼がいたらなあと想像キャスティングをしていた俳優の1人、主演の南博役は池松壮亮氏だった。

 ほどなくして映画は作られた。
 久しぶりの日本の現場。
 緊張の連続の中、撮影は終わる。
 詳細に綴りたいが今は噤む。

 やがて、映画は完成。
 何年もかかった。聞くところによると、12年はかかっているそう。
 さて。映画は初号試写と呼ばれるもので完成したものを出演者関係者で見ることができた。びっくりしたのは、ウクレレユニットでお世話になっているジェマティカレコーズの高橋社長も初号試写をご覧になられたことだった。髙橋社長とは、私の初代マネージャー今は亡き前田仁氏との繋がりがあり由縁深い存在だ。この映画の誕生の瞬間をきっと私が依代となって仁さんも喜んでいるに違いない。不思議な感覚だった。

 それにしても人生は短い。
 篠山紀信氏の週刊朝日表紙の15歳から裸の写真を経て、やがて18歳で女優になってエピックソニー所属になり仁さんと出会ったことも、19歳で黒沢清監督に出会ったこと、伊丹さんと京橋のフィルセンの火災や映画館で出会ったことも、昭和も平成もついこないだのようだ。



 ここ暫くある世迷言連綿と続く靄の中、一昨日の冨永監督新作初号試写で作品を通じ原作者の南博氏、主演池松壮亮氏、共演者、スタッフと極度の人見知りの私がそこに交ざり感じたもの、又は死と生、人生の時間、更には翌日の西村賢太氏ETV特集を経て、靄の途切れから見えてくる潔白と苦しみ、美、愛。

 連綿と続く人生だがそのひとつひとつを丁寧に観察して反芻。まずは映画。映画の誕生の瞬間には19歳から幾度か立ちあっているが、今回の冨永新作はひときわのある感情が湧いた。昭和平成令和。ここで何してるの。癌。カナダ行き、ノンモン、生死を経て、誕生の瞬間、交歓、なんと美しい時間、宵の月。

 ここにいないひとびと。伊丹十三。青山真治。生きるひとびと。黒沢清。中原昌也。母。友人。彼らのそのはざまで、ある時は時代の間に落っこちてはここではないどこかへのらのらノンシャランほっつき歩く私。そういえば私は母の“いってらっしゃい”が好き。あまりそれを言わない人だったから余計に。

「ああ、ノンシャランと行きたいね、あんたノンシャランとゆきなよ」
次期マネージャーにはよくノンシャラ系でと言われた。
彼女はその昔、新宿にあったノンシャランというバーが好きで通っているうちにノンシャランが板についたノンシャラとした人物だ。
そんなノンシャランという言葉も久しぶりに映画の中で耳にした。

 冨永監督新作はノンシャランと譜玉にのって白鍵と黒鍵の間に南博の青春のはざまを覗く。それは生きているうちの誰にでもある夢、葛藤、ノンモン、美しさ、継承として継がれていく。池松壮亮氏をはじめ日本を代表する役者を通じそれを見事に活写した冨永監督。天晴れである。ざまあみそらせしぼん、だ。

 滅多に打ち上げに出ない極度人見知りの私が初号試写でサッサと帰らず打ち上げ会場にお開きになるまで居て帰宅後も興奮覚めやらず翌朝もシアリングやエヴァンス、ベイカーなど50年代のバップなジャズメンになぜか映画で見た池松君を重ねるという妙なバイアスをかけて享楽な私。喫煙姿がまた味わい深い。


映画『白鍵と黒鍵の間に』より 10月6日公開


 池松君本人相手にスタッフに音楽担当の魚返氏にもそのバイアスをかけて得たバップな感動をバカ丸出し熱く語り、翌日原作者の南さんにも興奮してその話を伝える。音楽と言葉と映像。ケルアックとジャズ。私小説というジャンル。夜は西村さんE特で担当だった文春清水君、新潮田端君の姿もテレビで拝見。

 やっぱり書くことだ。痛みも苦しみも恥も蓋をしてきていること全部。『子宮会議』は私小説を試みたかったのだが私にはそれができなかった。子宮に喋らせることまでだ。私にはまだ蓋に鍵までかかってその鍵の番号すら忘れたふりしてそうじゃないと生きてゆけない気がした。故に生きにくいのだろうか。

 昭和60年代。あのバブルに私は暗闇にばかりいってた気がする。映画館の。酒場の。大人たちのはざまで。でもそこで見たものが今の私を形成してる。裸になってたくさん成長過程を撮るように写真を撮ってもらって映画に出てテレビを知って現場でいろんなことがあって、家族や恋人ともいろいろあったけど。

 でも流れに流れてもその流れはいい方へは流れてゆかないことも知っていたし、ぼんやり冷めていた。どこかでどうにもできない自分がいた。ある時、著名な監督にお前さんあんなシバイどこで覚えた?あんなのはもっと大人になってからでいい。今やるべきシバイじゃないと釘を刺された。毒だと思った。

 私は何かを持て余していた。若き肉体を?表裏一体の心?嘘や言い訳適当な境遇、軋轢。でも信じていたものがあったからとどのつまり救われた。音楽と映画と本。私1人で聴いて観て読んで感じるがまま。孤独。たまに交歓しあうからひときわに特別な時間、体験に。それがこないだの初号試写だったのだ。

 ぐしゃぐしゃ綴ったけど、結句すれば、生きているっていいなということ。生きていたから映画の誕生も目撃し、その歓びも交歓し合えた。生きているから、夢も希望も抱く。映画を愉しんだ。とてもシンプルに。

 それだけだ。それだけで、十分だ。



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