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あの素晴らしいニャーをもう一度

沖縄からバナナ畑の黒猫と小鳥ののれんが届いた。
梅雨の間にヒラヒラとやってきた夏の扉。
この下をくぐる猫はいないけど。

随分前に見た映画の話。
公開前の映画も素晴らしく、公開された映画も素晴らしく、あれこれ話したいけれど、試写で何本かみた中で「密輸1970」リュ・スンワン監督による韓国映画。関本郁夫、鈴木則文とまでいかぬでもきっと十分にみているであろうテイストがジュワッとくる。しかも、海女モノ。70年代を背景にしたからゆえに密輸と女と海域と港という韓国らしさも溢れている、何より水中撮影と船の撮影が見事。これを日本ではどこのプールでできるんだかなあとぼんやりブルーインパルスの飛ぶ方向を目で追いかけたが、消えていった。

「箱男」石井岳龍監督。
画面から伝わる音、音楽、映像、今の作品なのに、7、80年代を感じさせる電流のようなものが流れている。ビビビビビとくる。以前クランクイン直前で中止になった「虹のキリン」という幻の名作もあることを思えば、今作が27年もの時を潜って電流を放ち、映画館の暗闇で光っていると思えば、なんて素晴らしいことだろうか。でている人が全ていい。そして何よりも音だ、音が素晴らしい。映画はやはり音なのか。
もう一度原作読み返してもいいかなと思ったなどはさておき、これを見たときに白本彩奈さんという女優を私はもうしわけないのだが知らずに見ていた。気になって気になって画面の中に出てくるたびに、このデジャヴ感は何かとふと思い出したのは私だった。もう彼方の遠い記憶の私、そして軍医がいた。そうかそういうことだったのか。安部公房を薦められて読んだ頃だった。それももう彼方の記憶の隅っこにもないような、もうガサガサのフィルムで何が映っているのかすらわからないほどの記憶でしかない。そして、箱の中にいるということを石井監督はそうかそうとも言えるよね、と。そして箱の中にいる家族を思った。でも肝心なのは“箱”ではない。“書き綴る”ことなのだとも、気づかせてくれる。私は、アホなので、箱化しては楽しんでいる。

猫を箱化
箱入り猫
我儘なパパちゃんを箱化
駄々をこねるパパちゃんを箱化


シド・バレットと加藤和彦の映画が同じ渋谷の映画館で上映していた。
当然シドを見たいわけだが、加藤和彦という人を19歳の時にキャンティでよく見かけたことがあって何故か印象に残っていた。加藤和彦さんはキラキラと音を奏でながら颯爽と入ってきた。傍にもっとキラキラの安井かずみさんを伴って、2人してキラキラのキラキラだった。キラキラの大人を初めてみた。あまりにもそれがキラキラなので見るでもなくぼんやり2人が目の前を通り過ぎる様を幻影に魅入るようにうっとり目で追った。階段を下がる時背をちょっと屈んで奥へキラキラの笑顔をと共に消えてゆくのであった。

シドは見ていたので、2回目は次回にして、加藤和彦さんのドキュメンタリーをみた。フォークルは小さい頃にどこでもかかってたので、知っていた。サディスティックのカヴァーもウクレレでしたことがあるような、覚えてないがその程度の音楽体験だった。意外や中でもグッときたのが、「あの素晴らしい愛をもう一度」だった。これは正直言って、苦手な歌だったかもしれない。「命かけてと〜誓った日から〜♪」こんな歌い出しは私には重荷で、命なんかかけられたらたまったもんじゃない、でもヴェトナムがあったりすればそうだな、命かけて誓う愛もある時代背景かもしれないなあと想像、あの頃はラブアンドピースだった。私も筆箱やワッペンを持っていた、あのラブピースの。でも愛なんかわかってなかった。私は今になってこの曲の心根の温かさを知るのだ。若きあの頃の、喜び、楽しさ、そもそもあのイントロは今でこそ老舗感はあれど、当時、日本であれをやったのは新しいだろう、この曲以降、あの曲もこの曲もスリーフィンガー奏法が流行。そこへあの歌詞がくる。「心と心が今はもう通わない」と歌われた時に、ツンとなった。「イムジン河」を高らかに歌うあの安部公房を私に薦めた人も、もう通わない人だ。そして、何より、猫だ。最近、猫を描いてばかりいる。つい猫を思い出す。猫とよく話した。他愛もないこと。そして私の煮ても焼いても食えないようなつまらぬ独り言をあの子はよくにゃあと相槌を打ちながら聞いてくれた。

心と心が通わない存在ばかりが増殖する。
同じ花をみて美しいと言った人や夕焼けを追いかけた人、
色んな人が彼岸へゆく。
此岸に残されたものは通わない思いを胸に生きる。
でも、あの素晴らしい記憶に戻れる瞬間はある。
それが音楽であり、映画であり、本であり、旅であり、食である、日常でも。
私は、加藤和彦のドキュメンタリー映画を見て、もう2度と通わない心と心に項垂れていたが、いつでも戻れる場所はあるのだと、気付かされた。
それから、猫を抱くようにウクレレを抱いてみた。
私の左手首は負荷をかけすぎると、齧歯類に齧られたような痛みがあり、うまく曲がらない。でも、それでも爪弾く。あの子が好きだったウクレレの音を。
涙が知らずに溢れてくるけれど、それでもいいから、爪弾いてみる。
下手でも、なんでもいい、面白ければいい。
泣いたって、あとで笑えればいい。私は笑いたいのだ。
肝心なのは、書き綴ることと同じく爪弾くことだったり、つまりは、そういうことだ。あの子と一緒に楽しかった時の記憶にいつだって戻れるのだ。
素晴らしいじゃないか、音楽。
素晴らしいと感謝するよ、映画に。






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