ウィークネスフォビア~弱さへの嫌悪~
ウィークネスフォビアという言葉があるらしい。
「弱者嫌悪」を意味する男性学研究者の内田雅克氏の造語だとか。
「"弱"に対する嫌悪と、"弱"と判定されてはならないという強迫観念」のことだそう。
「弱さに対する嫌悪」
私にはそんなものはないと思っていたのだけど、意外と深いところに、そんな思いが眠っていたことに、最近気づいた。
街角で BIG ISSUEを買うことは、案外と簡単なことだ。
この寒い日々を路上で暮らす人たちを思って、いくばくかのおカネを財布から取り出すぐらいのことは、深い葛藤を感じずにできる。
私にとってそれよりも難しいことは、目の前のすがるような眼をした人と、ただ何気ない時間を一緒に過ごすことだと思った。
「依存」とか「被害者意識」とか。
そんなエネルギーが私は苦手なんだと思う。
自分にそれがないとは言えないし、むしろあるからこそ、見たくないのかもしれない。
そして、物理的に誰かに頼ることと、精神的な依存ということは別物だとも思う。誰かに扶養されていたり、身体的に介助を受けている人だって、気持ちの上で自立している人はいるのだと思う。
いずれにせよ、依存的なエネルギーの人に、私がしてあげられることなんて、ほぼないのだと思ってきた。
溺れそうな人を助けようと水に入ってしまえば、一緒に溺れてしまう。
人は自分の足で立つと決めて初めて、気持ちの上で、誰かにすがらずに生きられるのじゃないかと思った。
自分の荷物は自分で背負うことができて、初めて自由になれるんだと思った。
「荷物が重いから持って?私は非力なの」
そう思い続ける限り、その人は誰かに荷物をもってもらえないという被害者であり続けるし、もし何か持ってもらえても、また別の何かを持ってもらいたくなるんじゃないかな。
いっそ、そんな荷物は捨ててしまえばいい。
そう、そんなふうに、ずっと思ってきたのだ。
それはでも、私がなんとか這い上がれるだけの境遇にいられたから、というラッキーさもあったのだと思う。
それはもちろん、自力だけでなく、目に見える形、見えない形で、周りのサポートをもらえてきたからだ。
そのラッキーさゆえに、這い上がれない人の気持ちが、どうしてもわからなくて、「弱いままでいる」ことを、実はとても拒否していたんだと思った。
自分でできそうに見えることを、人に当たり前に頼る人を見ると、なんだかイライラしてしまう。
ごく当然のように人に要求する人には、猛烈な怒りさえ覚える。
そして、そういう人に対して嫌な雰囲気を醸してしまって、あとで後悔する。
できるだけ人に頼らないように。
むしろ誰かを助けられるように。
そんなふうに私たちは教育されてきたし、それを当たり前に受け止めてきた。
でも多分、それってとても深い部分で自分を苛んできたことなのかもしれないと思った。
強くあらねば、自分でできなければ、と、たくさんの荷物を背負い、誰にも頼らずに生きようとしてきたことは、私を傲慢にしてきたのかもしれないな。
ときには誰かにお願いして助けてもらってもいい。
自分が頼んだ以上のことをやってもらってもいい。
なんなら、頼まなくても助けてもらってもいい。
私も弱くていい。
誰だって弱くていい。
自分の弱さを受け入れられたなら、もっと本当の意味で強く優しくなれるのかもしれないと思った。
それにはまだもう少し時間がかかるのかもしれないけれど、やってみる価値はあるような気がしている。
今日のオンガク
「Reflection Eternal」-Nujabes tribute 10 years- by haruka nakamura(official)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?