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昭和を感じる夏の一日。

招待券をもらっていたので行ってみた。

県立美術館はお気に入りの映画館の近くで、上映待ち時間に散歩に行ってみたことはあるけれど中に入るのは初めてだ。

繁華街の外れに位置しており、だんだんと人気がなくなっていく。
隣の須崎公園の中を通って、灼熱の日差しの中を歩く。

蝉の声、木々に降り注ぐ真夏の光、
喧騒を遠くに感じながら
人がまばらな公園の緑の中にいると

子どもの頃を思い出す。
まさに昭和の時代。
子どものわたしはこんな景色を見ていた。

県立美術館の古い建物に到着。

休館日なのか?

と心配になるくらい誰もいないが、
ポスターが出ているので開いているのだ。

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中に入ると昭和に建てられた特有の重厚感。
よくある感じの公共建造物だ。
受付の女性がまるでAIのように
自動的に四階へと促す。

狭いエレベーターで四階まであがると、簡素な入口で招待券を渡す。
観覧者は自分だけ。

解説文をひとつひとつ読み上げながら進んでいくけれど、何も頭に入ってこない。
そして後半になると流し見になるのがいつものスタイル。
絵画鑑賞って意外と体力がいるのだ。

目的の亀倉雄策のポスターは最初に展示されていたのでしっかり見てきた。
当時どのように刷っていたのかまるで知識がない。

50年以上経っても紙こそ多少劣化しているものの、くっきり印刷された日の丸の赤と、文字のゴールドは鮮やか過ぎない深い色だった。

文字もひとつひとつをレタリング、もしくは型紙を使用していたそんな時代だろうか。

膨大な時間と手間をかけられて作ったのではないかと作品の前で制作現場を想像してみる。

今ほどの技術は当然ないはずなのに、なんだか迫力があるのはそういう人間技というか、魂を感じるせいではないだろうか。

オリンピックを契機に盛り上がっていこうとしている国力全体の熱気みたいなものが、きっと今とは全く違うものだったのだろう。

コロナ禍での今回と比較しようにも、いろんな要素が比較にならないが、オリンピック抜きにしても昨今のあれやこれは軽薄な感じが否めない。

自分が「昔は良かった」なんていうつまらない懐古中年になってしまったといえば元も子もないのだが。

印刷物にせよ、テレビで見る昔の映像にしろ、現代のクリアーな色彩に慣れてしまった目には確かに古ぼけていて、一幕トレーシングペーパーを挟んだような鈍さがある昭和。

昭和に生まれてティーンエイジャーから丸々30年、人間として確立する年代を平成に捧げ、人生の折返しを令和からスタートする。

感慨深いものだ。

三つの時代を生きてきて、子どもの記憶ながらに昭和は明るいエネルギーのある時代だったように思う。

帰りはまた須崎公園をちょっと大回りして歩いてみたらこんな昭和の遺産があった。

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かつては何かしらの芸が行われ、
子どもたちのキラキラした目差しが注がれた舞台。
この公園に近付いた時から、道理で昭和の気配がしたわけだ。


しかし、天神ビッグバンという都市再開発プロジェクトにより美術館も移転、公園も整備されるらしい。
あの重厚な建物は取り壊されるのだろうか。
この公園の昭和感も跡形なく、今風のスッキリとした公園に生まれ変わるのか。

わたしはそんなのちっとも嬉しくない。
古い物を修理しながら大切に使っていくことに
何か問題があるのだろうか。
うん、あるんだろう。わかっている。
大人の事情。

わたしは街の景観が変わり、
似たりよったりの家やビルが建ち並んでゆくことが、ただただ悲しい。