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初めての瞑想合宿参加体験談。(4日目)


※今回は、ちとディープな家族の話が入って来るため、途中部分を有料に変更いたしました。約珈琲一杯の金額に設定しておりますので、ご興味ある方はご購入されたのち、続きをご覧下さいませ。(更新日/2023.8/10)


耳の不調に苦しみつつ、迎えた4日目の朝。
今までは割と平気だったのに、ここに来てネットでこの症状について検索出来ないことや、身近な人にこの不安を自由に話せないことに徐々に焦りの気持ちが大きくなって来る。


瞑想指導者の先生に相談することは出来るが、それも限られた時間のみなので、孤独に修行する身としては、この不安や恐怖を抱えて日々を過ごすのは、正直かなり堪えた。

三日目にも書いた通り、突然酷くなった耳鳴りや残響、幻聴?のようなものがこれから悪化するのか、それとも瞑想修行の時間の経過とともに軽快するのか…そのどちらに転ぶのか、当たり前だがわたし自身、全く見当が付かなかったのだ。そのため、この時のわたしは、まさに"一寸先は闇"状態と言えた。

二日目・三日目辺りに、両脚の激痛の時に脳裏によぎった"わたし一人だけがこんなに苦しい思いをしているのではなかろうか…?"という考えが、耳の不調が仲間入りしたことで更に加速する。
わざわざ京都の山奥くんだりに十日間も坐りに来て、心の平安どころか聴覚(もしかしたら脳味噌?)がおかしくなって、それがもしも元に戻らなくなったりしたら……?そんなの、笑いたくても笑えない、まさに想定外であり最悪の事態である。


しかし、まだ自分の中で"帰る"という決断は下せなかった。ついさっき書いたように、わたしは"わざわざ京都の山奥に十日間も坐りに来て"いる、言うなれば完全なる"物好き"な訳で、行きたい!と心から願い、応募から開催前日になってやっとキャンセル待ちが出て奇跡的にここに来れたという経緯や、仕事を半ば放り投げてここにやって来た、という意地がある訳だ。

個人的なそういった事情を鑑みても、ここで泣き言いって身体症状がキツいし怖いからと途中でポーンと投げ出す訳にはいかない。そう、そんな訳にはいかんのだ。


そういった、一種鬼気迫る不退転の決意みたいなものがわたしの胸中にどんどこ渦巻いていく……。


と、個人的にかなり重々しい心境からスタートと相なった合宿四日目は、遂に皆様お待ちかね(?)ヴィパッサナー瞑想開始日である。

午前中までは、今まで通り鼻腔の呼吸に意識を向ける、アーナーパーナー瞑想を行い、午後のグループ瞑想時からヴィパッサナー瞑想へと切り替わる。
ここから、グループ瞑想の時間だけは、
1.目を開かず、2.体を動かさず、3.足を崩さない。という新たな項目が追加される。(決意の瞑想)

これまでのアーナーパーナー瞑想では、主に鼻の三角ラインを起点とした呼吸の観察に終始していたけれど、ヴィパッサナー瞑想となるとまたガラッと変化するのだ。


ヴィパッサナーでは、頭のてっぺんから足のつま先までの、体の全身の感覚をつぶさに観察・感じるようにという指導がなされる。
この時、心の中で数を数えたり、感覚を言葉で表現してはいけないとのことで、兎に角愚直に"体中隅々に生ずる、自身の細胞のひとつひとつの微細な感覚を感じ切る"ことだけを繰り返すことを、瞑想の際に流れてくる指導の声にも念押しされる。


全身の細胞を隈なく感じる……。文章として表せば一行で済むけれど、実際やってみるとこれは非常に骨の折れる行為(観察)なんですよ……。



一つ一つ、丁寧に自分の意識を頭頂部から少しずつ下へ下へとおろして行くのけれども、スッと血流や細胞の流れを感じられる部分もあれば、何も感じられない(ように)思える箇所もあり、しかも途中で"左耳からキーーンという音が聴こえる……"だとか、"今日で四日目かぁ…。今日のお昼ご飯は何だろう?"とか、"また少し脚が痛くなってきたぞ…!"とか、心が蝶のようにあちこち落ち着きのない寄り道ばかりして、体の感覚を感じる、というミッションからズレていく……。
ハッ!と気が付き、"いけないいけない!今は顔の感覚を感じる、それに集中だ……!"と、一日目二日目のアーナーパーナー瞑想の如く、フラフラとする自我とひたすら闘う時間となったのでした。

やっとこさ、初の一時間のヴィパッサナー瞑想を終え、"決意の瞑想中とはいえ、少しだけ脚を動かしてしまった…。そして何より意識があっちゃこっちゃ飛んでばかりだし、全身の感覚を感じるというのもとても難しい…。未だに聴覚もおかしいし、果たしてわたしは本当にヴィパッサナー瞑想を習得出来るのだろうか……。"と、自分自身を振り返ると、また悪魔の如き憂鬱が襲来した。その疑念を振り払うかのように、"いや、きっとやり遂げるんだ。その為にここに来たのだから…。"と半ば暗示のように自分に言い聞かせる。
そうだ。今は考え込むのは止めにしよう。腹拵えして、今後の瞑想時間に備えよう……。
しかし、足取りは重いままに、ひとまずわたしは食堂へと向かった。


さて、この四日の間、食事やティータイム時、すっかり"わたし的お気に入りの飲み物"が確立していた。


朝と昼は、牛乳に生姜パウダー、レモン汁、砂糖を入れ、お湯を足して温めたもの(名付けて、生姜檸檬牛乳?)をしょっちゅう作って飲んでいた。

たまにではあるが、上記に、少ーしだけ珈琲を入れるアレンジしたり。(※一日目二日目と夜の瞑想前に珈琲入りの飲み物を飲んだら、水分不足状態になって何度も脚が攣って辛かったwので、その反省を踏まえ、珈琲入りはお昼まで、と自分で決めた。)
そして夜は、主にお湯に生姜パウダーとレモン汁のみの飲み物、というふうなルーティーンが出来上がっていた。

生姜に関しては個人的に好きという理由から、そしてレモン汁に関しては、肉体的疲労回復にはクエン酸が効くと踏んで、積極的に取り入れておりました。


閑話休題。


お昼休憩で、美味しい食事とオリジナルな飲み物を摂取したことで回復して来たわたしは、続けて気持ちのいい陽気の中、風呂に入り、手洗いでじゃぶじゃぶ洗濯をし、乾燥機に掛け、干す、という一連の作業を行なった。
自由時間に己の生活のアレコレを終わらせないといけないのは不便でもあるが、瞑想三昧で煮詰まったわたしにとっての、良い息抜きであった。


部屋に戻る前に、いつものように物干し場の近くを流れる川の流れを見つめたり、綺麗な色のトンボが飛ぶのを目を細めて眺めた。
ここでは、時間は非常にゆったりと流れる。
そこに居るわたしも、自然と普段の生活以上にスローな心持ちと空気感に包まれる。

そういえば、我が家の下にも自然の川が流れていて、子供の頃はそこでよく遊んだっけ…。

幼い頃の記憶がふいに飛び出す。
兄弟で、或いは友達同士で、おたまじゃくしを取ったり小さな蛙や蟹を見つけたり、水に足を浸したりした。振り返ってみても、あれはとても楽しい時間だった。

すぐに流されてしまうだろうとわかっていながら、めいめい水の底の砂利に名前を書いて遊んだりもした。
そういう、大人になってからというもの、ほとんど記憶の底に埋もれていた記憶が、合宿所の川の流れを見ていたらフッと思い出されたのだ。

懐かしいな…。そう思いつつ、"ああ、今思い出している子供の頃の川遊びの記憶、それも無常(アニッチャー)なんだよな……。"と、気付く。今もその時と同じ名前の川は存在しているけれど、時間の経過とともに田舎にも都市化の波がやって来て、いつしか町によって整備され、あの自然なままの石ころや砂のある川ではなくなった。今ではコンクリートが敷かれ、その上に川の水が湛えている。そんなふうに、一見同じに見えても、全く変わらぬものなど何も無いのだろう。


そんなことを取り留めもなく考えていると、カーーン!と瞑想開始5分前の鐘が合宿所内に鳴り響き、わたしは回想をやめ、いそいそと自室へと戻ったのだった。



お昼後の二時間の瞑想は、自室で行うことにした。
お決まりのゴエンカ氏の詠唱が響く中、瞑想クッションの上に坐り、脚を組む。
左耳の虫の鳴き声のような音は相変わらず気になったが、しばらく鼻の辺りの呼吸に集中・観察したのち、少しずつ音が気にならなくなって来たのを確認後、いよいよヴィパッサナー瞑想へと移った。

まずは体の前面頭頂部から、顔、首〜と少しずつ感覚を研ぎ澄ませて意識を集中させる。
体の部位によって、ジリジリ、ピリピリとした感覚が走る部分もあれば、やはりシーンと何も感じられない部分もある。それでも根気強く、頭からつま先へと意識や感覚を巡らせてゆく……。

三巡ほどしつこく観察を続けていると、急に全身の表面がビリビリと反応し始め、そのうちじんわりと体中が温かい感覚に包まれた。

これは……。

突然の変化に少し驚きつつも、出来るだけ冷静に観察を続けていく。
すると、頭のてっぺんからつま先まで、心地の良い感覚で満たされ、非常な安心感でいっぱいになるのがわかった。

これが、自分の全身の感覚(血の巡り)を感じとる、ということなのか……?

ところどころ、こういった感覚を感じるのが弱い箇所もあったけれど、確実に初めてのヴィパッサナー瞑想指導の時とは全く違う感覚に溢れていた。
完全な解脱、というやつには勿論程遠いだろうけど、そのスケールの小さい現象が起きている、そんなふうに感じ取れた。

この何とも心地よい感覚を出来ればずっと感じていたい……。
そう思い始めた。すると、ふと先程の物干し場で眺めた川でのことが思い出された。


"体を巡る細胞の感覚、この心地よさにずっと身を浸していたいけれど、今この瞬間も、わたしの体、わたしの感覚は、合宿所の川べり、そして実家近くの川のように刻一刻と変化しているんだ。変わらず同じものなんて何も無いんだ。この全身に感じる心地よさ、それも又無常(アニッチャー)。だから執着はせず、ただただ今を感じよう……。"


そうして、全身の感覚をつぶさに感じ取っていると、ここに来られて本当に良かった……という感謝の念が自然と湧き上がって来た。
昨日は職場に対する感謝だったが、今回は家族のことが浮かんで来た。
正直、実家での暮らしは全て手放しで"いい思い出"と言える出来事ばかりではない。寧ろ、嫌な思い出の方が多いくらいで、わたしは暗い思春期を過ごした。

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