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宝塚月組 「フリューゲルー君がくれた翼ー」と「万華鏡百景色」観劇録

注意:

今回も多くのネタバレを含みます。まだ見ていない人で、ストーリーを楽しみにされている方は(はばかりながら)お引き取りいただいた方がいいかもしれません。


すごくよかった・・・(語彙力喪失)

とにかくフェミニストとしてジェンダーストレスの少ない作品だった。

あらゆる芸術作品やメディア作品にジェンダーバイアスがかかっているこの国で、こういう演目に出会えるとすごく救われる。

2回見に行った。2回目のときは仕事に追い詰められていて「私は観劇している場合なのか?」と思ったが、見終わったら【めちゃめちゃ観劇している場合】だった。むしろ、もっと見たいと思った。

ドはまりである。


ミュージカルは東西冷戦下のベルリンの話だ。

演出家の齋藤吉正さんがパンフレットに長い文章を寄せていて、その半分くらいが歴史についてである。

また漫画家の池田邦彦さんも解説を寄せていて、これも当時のドイツの歴史と音楽史を教えてくれる。

日本では、義務教育でも高等教育でも近現代史をほとんど扱わない。だから【キッカケ】と【向学心】と【時間】に恵まれて自分で学ばない限り、近現代の人間の歩みを知ることはほとんどない。私もご多分に漏れず、東西冷戦下のヨーロッパについてほとんど知識がなく、身近に感じられないテーマだ。

それを宝塚が扱う意義はすごく大きいと思う。【キッカケ】を提供するからだ。

一般の人が観客だから、大衆の嗜好に左右されがちな歌劇団が第二次世界大戦の歴史を扱うべきでないという意見も見たけど、私は全く逆の立場をとる。むしろどんどんやるべきだと思う。

宝塚にありがたいキッカケをいただいたのでちょこっと調べてみると

西ドイツが経済的に発展していくにつれて、東から西へ移住(亡命)する人が増え、なんと一日に2000人も渡っていたらしい。

そこで東ドイツが人口流出を止めるため、「ベルリンの壁」をつくる。

最初はコンクリートの屑と有刺鉄線だけだったが、のちに高さ3mの壁になる。

長さは155km。大阪と岐阜を繋ぐくらい長かったらしい。(全てドイツ大使館ホームページより)


人間が恣意的に線を引いて、分断し、統治すること、
そして次第に「統治(体制)の存続」が目的化してしまうことがフリューゲルではよく描かれていたと思う。
この支配側の心理やロジックをヘルムート・ヴォルト(鳳月杏さん)がよく表していた。好演!

一方で、その分断統治を全く望まない民衆の様子もよく描かれていて、
フランツ神父(夢奈瑠音さん)と若者たちが繰り返し夜中に集会を開き自由や政治を語る様子がすごくよかった。

フランツ神父(夢奈瑠音さん)はメガネがよくお似合いで、マルクスの資本論を持ち出してきて小賢しいようで、妙に肝が座ってる感じに面白味があった。

あと、劇中のベートーベンの「歓喜の歌」がすごくよかった。

実際の歴史ではベルリンの壁が崩壊した後のクリスマスに歌われたらしいのだが、すごく象徴的な出来事だから崩壊の瞬間の演出に使ったのかも。

壁の両側で歌う若者たちの両方を見せるために床が回転して、演者みんなが一度は真ん中でスポットライトを浴びる演出がスマートでオシャレ。

時代が大きく動くダイナミズムも感じられて、齊藤さんのセンスが抜きん出ていると思う。

政府が壁を設けて検閲すれば、文字で書かれた書籍は物理的にブロックすることができても、
音は空気振動だから上が開いている壁ではせき止めることができない。
音楽というメディアだからこそメッセージや感情を共有できたんだと思う。

1980年代当時はロック、テクノ、ハウスミュージックで
分断の終わり、統一の始まりを願う音楽が盛んにつくられ、演奏されていたことも知った。

ベルリンの西側で開催された音楽イベントは壁を挟んで東ドイツにも共有されるという状態があったようだ。

言論を統制されている東ドイツでは壁の西側の音楽やメッセージは「同じ気持ちの仲間がいる」と思えるエンパワメントだっただろうと思う。

そう思えば、日本では
ミュージシャンやスポーツ選手が政治的立場を明らかにしたり、現政権を批判すると、

声高に罵り、芸能人や選手にはあたかも政治を語る資格がないように主張する人もいるけど、

芸術やスポーツを通して表現するテーマは自由だ。
芸術やスポーツだからこそ届くメッセージがあり、その力は大きい。

音楽やスポーツのすごさを認めるからこそ、芸術やスポーツのテーマを小さな範囲に抑えこもうとするのだろう。

たとえば「音楽家が政治を語るな、○○(たとえば、愛)を語れ」という言葉こそが政治的な主張なのだ。

今の政治の不出来から目を逸らせようとしている。

ヨナス・ハインリッヒ(月城かなとさん)の軍服と濃いグレー系のメイクはめちゃくちゃカッコよかった。

軍人だけど、マッチョじゃない。

心に傷がある人間が持つ「深み」のようなものが出ていたと思う。その人間らしさによって観客はヨナスと自分を重ねやすいのかなと思った。

でも、文化の統制には加担する。あれもこれも「ナイン!」、自由は「ナイン!」である。

さすが東ドイツの軍人である。

ヨナスともう一人の軍人さん(礼華はるさん?)が、
ナディア・シュナイダー(海乃美月さん)の曲や歌詞に注文をつける掛け合いのリズムが最高だった。

特に2回目(9/6)の観劇ではすごい勢いがあった。
劇場で大声で笑ったらいけないと思って、必死に抑えてクスクス笑った。
このとき劇団員の皆様の興が乗っていると思ったら、
ブルーレイの撮影日だったらしいと後で知った。そりゃ勢いがあるわけよね。

あの「滑稽さ」には、ヨナスの主張に賛同するんじゃなくて、ヨナスの言うことのバカらしさが分かるから笑えるんだと思う。

芸能人が政治的意見を表明するのを批判する人は、
結局は、ヨナスや東ドイツの政府と同じ効果を発揮しているんだよね。
そうやって文化や芸術を抑圧することが滑稽なんだと思った。

話は変わるけど、月城かなとさんのダンスについて。
ヨナスのダンスもそうだったし、ショーの花火師のダンスでもそうだったけど、体幹がしっかりしてるなぁと思った。
172cmもあれば重心が高くなるため、上半身がブレやすいと思うのだが、ブレない。
体幹、具体的には腹筋・背筋・ハムストリングス(太もも裏の筋肉)が発達してないとできないことだと思う。

月城さんの太ももが【ジェンヌさんにしては太い】という批判的な意見をネットで見て、わたしは愕然としちゃったよ。

背が高く、太ももが細くて、ダンスもブレずに踊るって不可能だから!

むしろその太もも裏の筋肉があってこそのプロフェッショナルなパフォーマンスなのに。

月城さんの努力の形跡をわたしは祝福したい。

ちなみに人間誰しも年老いていくし、そうでなくても事故や怪我で一時的に歩けなくなることもある。その歩けなくなった人の足は驚くような速度で細くなるので、太ももの細い人に生命力の弱りみたいなものをわたしは感じてしまうのだ。

健康であること以上の美はない。と思うの。

ま、このへんは好みの問題もあると思う。

ちなみに、他の組のとあるジェンヌさんは華奢だ華奢だといろんなブログに書かれているのを見るので、細くても太くても(実際は全く太くはないけど)、いろいろ言われるジェンヌさんは摂食障害にならないだろうかと心配してしまう。

もう自分が親戚のオバサンのような目線で何しゃべってるのかわからなくなるけど、フェミニスト目線だけはブレずにいきたいと思う。

ヨナス・ハインリッヒ(月城かなとさん)とナディア・シュナイダー(海乃美月さん)が監視台でフリューゲルを歌う場面で、ほんの短い間、海乃さんのエネルギーが月城さんのエネルギーを上回った気がして、いいぞー、いいぞー!と拳を突き上げて応援したくなった。

(エネルギーって言ったけど…要は声量です)

ときどき宝塚の娘役さんが全力を出しきってないな?と思う瞬間があって、そういうときにわたしはめちゃめちゃ萎える。

なぜなら自分の人生で、どれだけ言われてきたか分かんなくて、すごく惨めな気持ちになるから。

男が間違えててもお前は(女なんだから)正論で返すな、
君は弁がたつから相手を追い込んでしまう、
黙ってたら可愛い、

なんで男が正しくて、かっこいいように、
女のわたしが演出しないといけないのか?

本当にカッコいい男は、わたしがなにもしなくても勝手にかっこいいんだよ。

逆に他人のわたしが立ててやらないとかっこよくないやつは、そもそもかっこよくないんだよ。

自立しないものを他人がたてる必要はない。
寝かせておきなさい、だ!

そうやって女は小さく小さく、能力が低いかのように見せないといけないと言われ続けて、

実際小さく見せると、とるに足らないもののような扱いを受ける。

理不尽すぎる。

でも、それがわたしが毎日生きてる社会で、それと同じ状態を宝塚で感じると、娘役さんを不憫に思うし、「わたしが一番惨めだったとき」を思い出すから暗い気持ちになる。

だからこそ、ナディアが歌うときのように娘役さんがギラっと光る瞬間に出会うとエンパワーメントされる。

あとね、さすが芝居の月組の頂点にたつ二人だなと思うのは、ヨナスとナディアの気持ちが通じたときの表現力の多彩さね。

キス一辺倒じゃないの。

目線をお互いにロックオンして見つめ合いながら、体はスロモーションのように近づくところがうまい。

久しぶりに会えたときにうれしくて、声が上ずる感じとか。
ヨナスとナディアのキャラや関係性から、べったり熱愛表現をされると興ざめするけど、同志のような温かい愛情をうまく表現するなぁと思う。

ちなみにわたしは常々、好意は視線に現れると思うのだが、二人は視線をすごく上手に使う。

一回目の観劇は一階席で半分よりも前だったから、かなり近くに感じて、余計に二人の視線の使い方にうっとりした。

二回目の観劇は二回席の真ん中付近で、壁からの反響が少ないだけに音の聞こえ方が抜群によくて、音楽と台詞を堪能した。

そして上からはよく見えるし、オペラグラスからフレームアウトしにくいので、追いかけ回すのによかった。

どこの席からも違う楽しみ方ができるのが宝塚のよいところだなと思う。

あとね、指揮者が御崎恵さんって女性?だったのに、わたしはビックリ!(すみません、宝塚初心者なの)
オーケストラも24人中15人が女性と思われるお名前で、男性っぽいお名前の方は9人だけ。
珍しく男女比率が女性の方が多いんだなぁって思った。
音楽の世界ではわりとよく見る光景なのかな?
わたしが普段よく見る企業とか組織では男性ばかりで偏りまくってる分、新鮮に感じちゃった。

これだけネタバレだらけのブログ記事を観劇前に読まれる奇特な皆様へ。

もしこれから観劇されるのでしたら、是非とも芥川龍之介の「地獄変」のあらすじだけでも読んでいってほしい。

読んでいくと万華鏡百景色のあの場面が、十倍は楽しめるし、味わい深いから。

逆に読んでいかないと、短い演出なので前のめりで頭の回転をめちゃめちゃ上げて積極的に読み取りにいかないと分かりづらいかも?と思う。

わたしは一回目と二回目の観劇の間で読んだ。

もちろん観劇後に地獄変を読んで、記憶を辿ってあの場面を思い出すのも一興だけどね。青空文庫で全文無料で読めるし、全部読まなくても主要な登場人物とあらすじが分かっていれば十分だと思う。

あと、マネキン役の雅耀さん、八重ひめかさん、乃々れいあさんの微動だにしない演技もすごかった。

普段、脇役の方も絶対に舞台でボーッと突っ立っていることがなくて、細やかにお芝居をして動いている宝塚歌劇団員だけど、マネキンになるときは、ヨーロッパのストリートパフォーマンスも驚きの静止を見せてて、天晴れでした。

はぁ、楽しかった。

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