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緩くて、厳しい!?アメリカ(テキサス)のスクールライフ(2)気がついたら、振り落とされているシステム

”できる子”をスクリーニングし、”伸ばす環境”を与える

トライアウト(入部テスト)がある、スポーツの部活動

我が家の子どもたちは幼稚園と小学校を日本で体験してから、アメリカの小学校に転校しました。その時々、何らかの運動を習い事としていましたので、日本でも運動かできるかどうか?と尋ねられたら、中の上か、上の下くらいではないかと思います。そのため、長い間、気がつかなかったのが、アメリカでは、スポーツの部活動に、希望者全員が入部できるわけではないということです。

まず、アメリカのスポーツ部にはシーズンがあります。それぞれ3ヶ月ずつくらいで、シーズンが始まる前にトライアウトという入部テストがあります。トライアウトがあることは知っていましたが、子どもたちが希望した部活動のスポーツは、彼らがほぼ初心者の状態で受けたにもかかわらず、入部ができていましたので、誰でも入部できるのだろうと思っていました。が、実際には、落ちる子も結構いるようです。

日本の部活動は、基本的に、希望者全員が入部できます(よね?)。上手じゃなければ、試合に出れないというだけで、練習自体は、仮に球拾いから始まったとしても、そのうち参加させてもらえるようになるかと思います。ところが、アメリカの中学は、トライアウトで合格できなければ、練習にさえも参加させてもらえないのです。その代わり、異なるシーズンに行われるスポーツであるならば、トライアウトに合格した部活動には、いくつでも掛け持ち可能です。

前回のコラムで、小学校の体育の授業はゆるゆるだという話をしました。競うことで自分の位置づけがわかりますが、競うことのなかった小学生時代、自分のスポーツ能力を把握しないまま、中学でスポーツを始めようとすると、練習すらさせてもらえない・・・いきなり大きな壁にぶつかります。それでも、テニスやマラソン、水泳等、個人でできるスポーツは、家族で練習することができますから、問題ないかと思います。ところがチームで行うスポーツは、ある程度の運動能力がなければ、中学生で始めることが難しいのです。

学校のチームに入部できなければ、民間のクラブチームに入部するという手もあります。ところが、クラブチームにもトライアウトがあり、月謝を払えば練習やチームに加えてもらえるというものでもないようですし、トライアウトは毎年行われますので、前年度所属したチームに、翌年も必ず所属できるとは限りません。あくまでもチームに必要な人材を選抜するという考え方で行われているようです。
チームに必要な人材の選抜”ーーということで、ポジションがあるスポーツでは、学校とクラブの両チームに所属している子のポジションが、学校とクラブで異なるという場合も。それでも上達を目指すのであれば、できるだけその両方のチームに所属します。というのも、学校とクラブでシーズンが異なるため、年間を通じて練習を行うためには、両方のチームに所属する方が良いからです。

「選抜に漏れてしまった・・・でも、練習をしたい」という子どもにとっての、わずかなチャンスといえば、トライアウトで十分な人数を集められなかったクラブや、新設で名前の知られていないクラブを探して入部するか、クラブチームが時折開催する、数日間のキャンプ(集中トレーニング)に参加すること等になります。

一方、運動能力の優れた子どもは、学校もクラブも、チームの掛け持ちが自由に行われます。特に学校のチームは、運動ができる子には、教師の方からいろいろなスポーツチームに所属することを勧められるようです。何らかのスポーツチームに参加したい子どもは、一般のPE(アメリカの体育の授業)とは違うクラスに所属するため、そのクラスの教師が、トライアウトを勧める(強制する?)こともあるのだとか。いずれにしても、運動能力が高い子どもは、様々なスポーツに挑戦するチャンスが与えられています

運動能力についての評価を受けなかった小学校時代から一転、中学では”できる子”と”できない子”の扱いがここまで変わるとは・・・。こういった選抜システムは、勉強の方にもあり、勉強に関する選抜はもっと早いうちから、ある意味こっそり?行われます。

小4から選別スタート

第一に、飛び級というのはかなり普通に行われます。小学校の低学年で既に飛び級の子がいましたので、”1年早く入学”ということもあるようです。飛び級とは別に”天才クラス”というのも存在します。”飛び級”は、文字通り、学年を飛ばして同じ年齢の子どもより先の学年の学習内容を学ぶことであり、”天才クラス”は、カリキュラムとしては同じ学年のものを深く学ばせる・・・というコンセプトのようです。

現在のテキサスで力を入れているのは、飛び級の方かなと思います。学校側ははっきりと言及しませんが、1年生から2年生に上がる際に、選抜される子どもを集めたクラスというようなものができるようです。1つの区切りとなるのが3年生の終了時で、決め手となるのが算数の成績。選抜クラス(仮称)の子どもたちは、4年生のうちに5年生の算数の勉強も完了させます。小学校の最終学年となる5年生では、選抜クラスの子どもに関しては、6年生(中1)向けの数学の授業が行われます。・・・とはいえ、ここは、正式な学校の資料等が残っているわけでもなく、教科書を使わないため、ここは私の記憶によれば・・・です。もちろん、英語の成績も関係してくるのですが、よりはっきりと学年による違いがみられるのが算数の方です。

この時に選抜クラスに選ばれなかった子どもにも、もう一度チャンスが・・・というよりも、こちらの方が正式な選抜になるのですが。希望をすれば、5年生終了時に、選抜テストーー6、7年生(中1、中2)の数学ーーを受験することができます。7年生の数学テストをクリアできた生徒は、文系・理系のそれぞれ特進クラスのようなものに入ることができます。6年生(中1)で、7・8年生(中2、3)の数学を一気に終わらせ、7年生(中2)時には高校の数学が始まります。
一方、6年生の数学をクリアできた子は、中学入学後、7年生(中2)の数学から始めることになります。飛ばした学年の学習内容は、一応、新学年を迎える前の夏休みに2週間の補講があります。が、基本的にテストをクリアしているということは、その学習内容をクリアしているということで、そこまで真剣な補講ではないようです。

大学進学を考えるのであれば、上級クラスの在籍の方が普通!?

中学では、本人の申請により、普通クラスか上級クラスかを選べる科目もあります。ただし、「進学を考えているのであれば、全ての科目で上級クラスを選んでおくべき」というのを、大学生のお子さんがいらっしゃるママ友に教えてもらいました。確かに上級クラスを受講している方が、高校の単位に認められるものもあり、”有利”と言うこともあるようなのですが、それよりも「普通クラスは授業にならない」ことの方が問題のようです。

この”普通クラスは授業にならない”と言うのは、日本の都心部の学校で問題になっている”学級崩壊”とは少し事情が違うかもしれません。授業参観があったのは小学校の時のみでしたので、その時からの推測をすると、”一見、積極的に授業に参加している子が先生にとっては問題児”というケースもあることです。答えがわからないのに手をあげたり、指名されていないのにランダムな発言を繰り返したりする子がちらほら・・・。存在意義を認めてほしいという行為と思われますが、これを毎日されると、授業が進まないそうなのです。
「授業中の発言の積極性は、学習への熱心さと違うのか」と私自身が痛感したのは、学期末に行われる表彰式。1人ひとりに対して、様々な評価をしてくれ、ここで成績の評価がAとBの生徒は、「全てがA」とか「全てがA、B」という賞をもらえるのですが、授業参観中、ずっと発言していたお子さんたちは、この賞の受賞はなかったようで・・・。

ただ、子どもたちの通っていた(る)学校は、治安の良い地区にある学校で、治安のあまりよくない地域の学校は、学級崩壊のようなことも起こっているかもしれません。いずれにしても、上級クラスは、授業の進行が早く、成績が追いつかなければ、普通クラスに落とされるシステムですので、授業をかき乱す生徒がいる確率が低くなります。

子どもの自主性を尊重した教育

子どもによっては、厳しい現実が待っている”自主性の尊重”

”子どもの自主性を大切にする”というのは、本当に大切で、このこと自体を否定する気はありません。ただ、子どもはあくまでも子ども。大人に比べて情報量も経験も少ないことは否めません。すべてを子ども任せにすることが、子どもにとって幸せなことか?というと、そうではない気がしています。

子どもたちのスポーツ観戦をしていて、たまに驚くのが、観客席から自分の子を罵倒する保護者がいることです。子どもに聞こえるように深いため息をついたり、コートの中の子どもを泣かせたりする保護者も見かけたことがあります。その手の保護者のお子さんの様子を拝見していると、うまくいかない原因は、基本的な運動能力が備わっていないことではないかと思えることが多いような気がします。正直なところ、「(日本の)小学校の体育の授業?」と思うレベルのことも多々あり、ヤキモキする親御さんの気持ちも理解できます。ただ、全ては積み重ねだと思いますので、ゆるゆるの小学校時代を経た中学生に、いきなり「機敏に動け」「スキルアップしろ」といってもなかなか難しいことだと思います。

高校のバレーボールでは、1年生チームのほとんどの子が”相手のコートにサーブを入れることができない”というチーム(学校)もありました。このようなチームもトライアウトはすると思いますので、落とされてしまった子がいたとすれば、その子のスキルは一体・・・?と心配になります。一方、同じ高校1年生でも、垂直に落ちるアタックが打てる子もいますから、この格差は高校時代にどれだけ頑張っても、縮めることは不可能かと思います。

もちろん、「スポーツは、楽しくできればそれでいいではないか」という考え方もできます。しかし、例えば、サーブが一向に入らないバレーボールが、”本当にスポーツを楽しんでいる”ことにつながるのでしょうか。お互いのコートに3回以内にボールを返してこそ、バレーボールというスポーツだと思うのですが。
また、垂直落下のアタックも、打てる必要はないかもしれませんが、傍観者の1人としては、「あんなアタックが打てたら、さぞかし気持ちいいだろうな」と思います。このような楽しさ、心地よさは、何かに挑戦し、努力した人にしか味わえないものです。そのような達成感を楽しめるようになる前に、やめてしまうようなことになれば、残念だなと思います。

勉強面でも同じことがいえます。
ここで生徒の差を広げてしまうヒトコトがあります。

「大学進学で重要なのは高校の成績。中学の成績は考慮されないから大丈夫」。

確かに学校の説明会でも、このような説明はありました。ただし、大切なのは続きです。

「だから、上級コースを試してみたい生徒は、成績を気にせず挑戦することができるし、途中で難しいと思えば、普通クラスに変更もできますよ」。

私は、この先生の発言を、難しいクラスに挑戦することを促しているように理解したのですが、「中学生の成績は、大学受験に関係ないから、子どもたちには伸び伸びさせればいい」と思った保護者の方もいたようです。

先生が推奨する理由は、中学時代に上級コースの科目をパスしていた生徒は、高校では、パスした科目の次の上級クラスが受講できるようになるからです。所定の試験に合格すれば、高校では、大学の単位として認められる科目の受講も可能になります。
高校卒業時に必要な単位としては、普通クラスの1単位も、上級や大学レベルのクラスの1単位も同じ1単位です。しかし、大学に提出する成績の評価では、同じテストの点であれば、より難しいクラスを受講していた生徒の方が高得点がもらえます。スケートのジャンプで、回転数によって基礎点が違うような感じです。

スポーツでも、学習でも、中学生や高校生になった子どもたち自身が「興味がない」「やりたくない」と思うのならば、問題ないかと思います。しかし、基本的な学力、運動能力を大きくなってから身に付けようと思うと、小さい頃に取得するよりも難易度が上がるのではないでしょうか。

この流れで思い出すのが、コロナの前に、ブルーカラーの白人男性の自殺率の高さがニュースになっていたことです。アメリカは超学歴社会ですので、高校、大学、大学院を卒業しているかどうか、大学での専攻は何かが日本以上に就職に影響してくるようです。保護者が同じ所得水準だとすれば、例えばアジア人家庭は白人家庭よりも教育に熱心な傾向にあります。逆に後者は、他の人種グループよりも、子どもが悪い点をとった際に「GOOD JOB」と声がけする傾向があるという話も聞きます。

さらに、ここでアメリカ特有の問題として、行き過ぎたポリティカル・コレクトネスがあります。白人男性は、人種的にも性別的にも、弱者の要素が一切ないグループ。にも関わらず、低収入の職にしか付けないのだとすれば、それは本人の責任・・・のような社会からのプレッシャーがかかるとのことで、薬物依存率も高いとのことでした。

大学は行っても行かなくても、本人次第だと思います。それに、白人男性に本当にこのようなプレッシャーがかかっているのであれば、そこは社会が改めるべきだと思います。とはいえ、未成年の時に”現実を知らないまま行った決断”が”生きていくことが困難な将来”を招くリスクがあるのならば、そのことも踏まえた上での子どもたちのサポートが必要なのではないでしょうか。

自主性が高い教育が与えるポジティブな影響

一般的なセオリー通り、自主性の高い教育は、当然ながら、子どもに良い影響も与えます。中学生の時から、コーディングや、デジタルアート等の授業の選択ができます。外国語も、学校によっては選択できるところもあります。
高校では、選択できる授業の幅が広がり、その1つには、農業系、医学系、教育系・・・と、大学の学部や、高校卒業後のキャリア選択の参考になるような科目が加わります。高校生が大学の学部や、卒業後の進路選択をするというのは、なかなか難しいものがあります。その分野の学問やスキルをほんの少しでもかじることができたら、自分のやりたいことを見つけやすくなるのではないかと思います。

もう1つ良いなと思ったのが、これらの選択科目の情報ページ(学校が提供するキャリアサポートのためのウェブサイト)には、その学部を卒業することで、可能になる職業選択や、その職業の標準的な給料が示されていることです。アメリカらしいものだと思いますが、これが実際にアメリカの現実です。将来が見渡せるような情報を提供した上での選択科目というのは、とても意味あると思います。

情報提供という点では、テキサスでは毎年、スターテストというものが行われ、自分の成績が州や学区、学校でどのくらいの位置にいるのかということを知ることはできます。特に、アメリカでは高校入試というものがありません。公立高校は居住区で決められたところに、自動的に通うことになります。1つの高校の学生数が2,500〜3,000人、またはそれ以上というところもありますから、同じ高校に通う生徒でも、成績の開きがかなり大きいものに。そのような時に、目安になるテストは自分の学習具合を確認する貴重な機会になります。
とはいえ、このテストに対しては、「テストありきの授業がなりがち」という懸念を持つご家庭もあるようで、このテスト故にホームスクールという選択肢をしたという人もいました。個人的には、指定の教科書がない授業ですので、統一テストがあることで、ある程度授業の保証がされるため、必要ではないかと思います。

何はともあれ・・・、子どもたちの自主性を尊重する教育というのは、決して悪い意味での放任主義というわけではありません。ただし、3者面談や家庭訪問のようなものは一切ありませんので、”この結果が子どもたちの希望する進路に対してどうなのか?”を子どもたちと話し合うことは、あくまで個々の家庭マターとなります。

日本の公立学校は、真ん中からやや下の生徒に標準を合わせて進めるといいます。確かにこのやり方では、スター選手は生まれにくいかもしれません。ただ、落ちこぼれをできるだけ作らない効果はあるのではないかと思います。ある意味、格差を上方向にも、下方向にも広げにくい教育なのでしょう。
IT分野でアメリカに押され気味の現在、スター選手を育てる教育も不可欠ですが、そのような教育を導入する際にも、現在ある”落ちこぼれを作らない教育”の方も継続させてほしいと思います。

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